【歩き遍路12日目】大砂〜野根:明徳寺(東洋大師)、25.7km

「発心の阿波」から「修行の土佐」へ

甲浦西股公園から甲浦港を望む
甲浦(かんのうら)のエメラルド

四国を歩きだして初めて海ぎわで迎える朝、お宿の目の前に広がる海からひとり夜明けを見た。今日は「発心の道場」阿波に別れを告げ、「修行の道場」土佐へと入る。徳島県と高知県の県境にある「古目こめ峠道」は少し荒れていたが、峠を越えた途端に山の雰囲気も一変し、「関所越え」をした実感があった。高知最初の町「かんのうら」の漁港は煌めくエメラルドの海が印象的で、今でも時々思い出す美しい風景のひとつだ。「精神修行」と言われる区間を歩き始めて二日目になるが、そもそも海が珍しいこともあってか、その輝きを眺めながらあれやこれやに思いを馳せつつ歩いていたら、あっという間に今日のお宿に着いていた。

日付2025.04.21(月)
天候晴れ(15℃〜25℃)
行程海陽町 大砂 〜 東洋町 野根、明徳寺( 42,823歩/25.7km/↑497m ↓477m/10h50m )  
06:10「大砂荘 CAMP and LODGE」出発 → 番外 東洋大師まで23.0km
10:25 道の駅 宍喰温泉
11:20 古目大師
11:40-12:20 古目峠道
14:55-16:55 番外霊場 明徳寺[東洋大師](滞在2時間)
17:05「まるたや」チェックイン
18:30 夕食
お宿まるたや【 個室2食付き ¥7,150/4室/16:00〜 】  
(4/17 16:25 tel予約)
費用食 費 ¥1,117(朝食¥593、飲み物¥524)
納経料 ¥ 300
宿泊費 ¥7,150
合 計 ¥8,567

古目こめ峠(宍喰ししくい峠)】
・徳島県と高知県の県境を越える峠。「古目大師」の少し先で国道ルート(とこトンネル)との分岐案内がある。
・峠にはお地蔵さま(お墓?)と神社へのしるべ石があり、その対面の木にお手製の県境の札がかかっている。
・徳島県側はシダが繁茂、高知県側は急傾斜と苔むした石の階段が続く。何度か崩れてルートが付け変わっているのか、たまに道が不明瞭なことがあるが、注意深く見渡せばへんろ札が必ずある(逆打ちはピンクテープ頼りになり、迷いやすいかも)。
・一応手が入っている感じはするが、通る人が少ないようで踏み跡が若干薄い。落ち葉も満載で、これまで通った峠道のなかで一番「荒れている」と感じた。夏はシダで道が消えそう。雨のあとは滑りそう(特に高知側)。悪天候の日は避けた方がいいかもしれないが、晴天の日中なら大丈夫だった。

 

海岸沿いの絶景ロード

5:00、起床。今日は四国に来て初めて海のそばで朝を迎える。昨日の夕方に雲が晴れてきていたので、素敵な朝焼けが見られるのではと思って目覚ましを早めにかけておいたのだ。夜更かしをしてしまったので少し体がだるかったが、気合いで布団を跳ねのけて、例の突堤の先へ向かう。皆まだ眠っているのか、キャンプサイトは静まり返っており、散歩や釣りをしている人影は見当たらなかった。鳥の声もまばらで、聞こえてくるのはただ静かに波が寄せて返す音だけだ。

突堤の正面、まだ青い南の空にはちょうど半分の下弦の月が取り残されていた。その下には、ぽつりと一艘の漁船。もう漁が始まっているのだろうか。ひんやりとしたコンクリートに寝そべって、空を流れる雲を眺めながら日の出を待つ。やがて、東の空がピンク色に染まり出した。空も海も、淡い桃色から徐々に赤みを増し、次第にオレンジに染まっていく。穏やかな海風に吹かれながらその様子をただ見つめているだけで、なんだかとても満たされた気持ちになった。この壮大なドラマをひとり占めできるなんて、なんて贅沢だろう。世界は、こんなにも綺麗だったんだな。

明けの空に浮かぶ下弦の月
残月
大砂海岸の日の出
朝焼けのオレンジって、ちょっと美味しそうと思ってしまう

6:10、お宿を出発した。素泊まりのいいところは、思いっきり朝早くに出発できるところだ。朝食は2時間ほど歩いたところにある海部のコンビニで調達することにした。久しぶりのスペインスタイルだ。スペインのアルベルゲ(巡礼宿)はほとんどが素泊まりかセルフ式の朝食なので、だいたい6時頃には出発するのが常だった。日の出が遅いので(緯度ではなく標準時の関係)宿を出る頃はまだ真っ暗で、歩いているうちに背後から太陽が昇ってくる。日本ではなかなか見られない、地平線からの日の出だ。そして、ちょうど頃合いの時間に着いた町のカフェでトルティージャ(スペインオムレツ)とカフェ・コン・レッチェの朝ごはんを食べるのが楽しみだった。

日本で同じように日の出を見ながら歩くのはなかなか厳しい。スペインより2時間も日の出が早いからだ(というか、スペインが遅すぎるというか)。ただ、早くに出ればその分時間に余裕ができるというのは変わらない。ごはんが楽しみなので旅館や民宿に泊まれる時は2食付きを選ぶ派だが、たまにはこういう歩き方もいいだろう。

大砂海岸
大砂海岸。夏は海水浴で賑わいそうだ
アキグミの花
アキグミの花
太陽が上がってきていた
日も上がってきた

外に出ると日はだいぶ上がっていたが、空気はまだ冷たくて歩くのにちょうどいい。鳥たちも目覚めたのか、ホーホケキョ、と鶯が鳴きかわす声があちこちに響いている。浜辺から国道へと戻る坂道を上っていると(お宿のすぐ前から砂浜に下りて大砂海岸を歩くルートもあったようだが、砂浜は歩きにくくて昨日でちょっと懲りた)、道の脇にとてもいい香りのする花が咲いていた。「アキグミ」というらしい。グミというからには秋には赤い実が生るのだろうか。この花は4月下旬〜5月中旬が開花時期のようで、ちょうど高知を歩いていた期間と重なっており、高知の海沿いを思い出す時一緒に薫ってくる印象深い香りとなった。

今日はいよいよ県境を越え、「発心の道場」阿波から「修行の道場」土佐に入る。現代の地名でいうと、徳島県の最南端・海陽町から高知県の東の玄関口・東洋町にかけての約24kmを歩く予定だ。室戸岬までの道はほぼ国道55号線一択だからなのか、ずっとお馴染みだった「へんろみち保存協力会」のへんろ札は薬王寺を過ぎて以降すっかり見かけなくなった。昨日の鯖大師までもそうだったが、代わりに誰かが手書きで作ってくれた札が時々立っている。

お手製のへんろ札
お手製のへんろ札。55号線、55kmは狙ったものか?
粟ノ浦のバス停
粟ノ浦のバス停

早朝の静かな国道沿いをのんびり歩いていくと少しずつ民家が見えてきて、浅川の集落に入った。バス停名になっている「粟ノ浦」は、「八坂八浜」の7つ目の浜、「粟ノ浜」にあたるのだろう。隣の商店が寂れて久しい感じがして少し寂しい。お宿を出て30分ほど歩いたところで国道ルートと住宅地ルートの分岐があり、後者を選択して「まぜのおかキャンプ場」方面へ向かった。伊勢田川の一番河口側に架かる「伊勢田橋」からは港湾の様子がよく見え、その欄干は早くもカツオを全面に推してくる。

国道ルートと住宅ルートの分岐
↖︎まぜのおかキャンプ場方面|国道55号線方面↗︎
伊勢田橋からの景色
伊勢田橋。まだ徳島だが、さっそくカツオ推し

こちらのルートは国道よりも海側を通るので、漁船がたくさん停泊していたり遠くにクレーンっぽいものが見えたりと、いかにも港らしい風景が続く。あまりにも海に近いためか、民家の前には高く堤防が築かれ、いざという時は閉門できるように巨大なゲートが何基も建設されていた。浅川湾は大きくV字型に切れ込んでいて、波が増幅されやすい地形だ。過去に何度も南海トラフ地震による津波が一帯を襲っており、その都度後世の者が同じ被害に遭わないようにと、記録と教訓を刻んだ石碑が建てられてきた。自分の背丈を越える高さの波の跡が示された「津波十訓」を胸に刻み込む。 

津波対策ゲート
津波対策ゲート
南海道地震津波史碑と津波十訓
南海道地震津波史碑と津波十訓

浅川を越える「浅川橋」を渡ると、海辺に別れを告げることになった。昨日から歩いてきた「八坂八浜」は、牟岐むぎから浅川までを結ぶ海岸線のことだった。おそらくこのあたりが八つ目の「三浦浜」になるのだろう。難所の代名詞となっている「八坂八浜」だが、ではこれが終われば道は易しくなるのかというとそうは問屋が下ろさない。大正期に道路ができるまで、ここから先は「ごろごろ浜」と言われる石ころだらけの道なき海岸線を辿ったそうだ。高知への道は厳しい。

浅川橋から町並みを望む
浅川橋から町並みを望む
浅川休憩所
浅川休憩所

民家が途切れる頃にキャンプ場へと入っていく分岐が出てきて(遍路道は直進)、その三叉路にとても立派な公衆トイレが建っていた。日課の散歩だろうか、向かいから高齢のご夫婦が歩いてきて、がんばってねと声をかけてくれる。少しお話ししたあと、ふたりがゆっくりゆっくり、浅川の町の方へと歩いていく後ろ姿を見送った。この年齢になっても夫婦で連れ立って近所を散歩できるのはとても素敵だ。

しばらくは道と山林だけの区間が続いたが、ぽつんと一軒のコテージがあって、その手前に自販機が置かれていた。歩き出してちょうど1時間、今日は朝お宿でペットポトルに汲ませてもらった水しか飲んでいないので、お気に入りのQooを買って糖分補給。ついでに天気予報をチェック、今日はこれから快晴になりそうだ。そして気になっているあさっての室戸岬の天気は…少し雨が早まっている!合計33mmの強い雨だが、降るのは前日の夕方〜明け方にかけて、ちょうどお宿にいる間で、歩いている間は大丈夫そうだ。「焼山寺の時みたいに夜に降ってくれないかな」と思っていたことが本当に叶った。「室戸に来てよいぞ」というお許しだろうか。お大師さま、ありがとう!!

老夫婦の後ろ姿
ゆっくり、ゆっくり
自販機で飲み物を買う
Qooでひと息

コテージからほどなくして、再び住宅地に入ってきた。阿波海南駅を中心とするこのあたりが海陽町の中心部になるようだ。遍路道はその外縁を縁取るようにしてこのまま南下していくのだが、ここでひとつミッションがある。今日歩く道で最後のコンビニに寄っておくことだ。途中で地図のルートから少し北寄りに逸れ、民家の間の路地を適当に縫って駅方面へと歩いた。車通りから一歩中に入ると道は一気に細くなり、だんだん迷路のように入り組みだして、まるで探検に来ているようなワクワク感だ。高い生垣に重厚な瓦屋根の家が続くところもあり、早くも高知の町並みを思わせる。

高い生垣と瓦屋根の屋敷が並ぶ
高知っぽい雰囲気がある通り
お釈迦さまに見えた切り株
お釈迦さまかと思った

車1台通るのがやっとのようなくねくねとした路地を進んでいると急に視界が開け、田園地帯が目の前に広がった。川の中洲みたいになっている部分が農作地帯になっているようだ。橋を渡って田んぼの真ん中を突っ切る道を進んでいくと、行く先にピンク色にけぶる帯が横たわっていた。満開の蓮華畑だ。子どもの頃ご近所の田んぼが蓮華農法をやっていて、よく花冠を作って遊んだことを思い出す。お隣ではブロッコリーの収穫中。立派なブロッコリーがどんどん軽トラックに積まれていく。もしかしたら、このあたりで採れた野菜たちはうちの冷蔵庫にも来たことがあるのではないか。

蓮華畑
ピンクの絨毯
蓮華畑
懐かしい思い出の蓮華畑
ブロッコリーの収穫
恵みに感謝

海陽町役場の前を通り過ぎ、ちょうど8:00に目的のローソンに着いた。思ったほどお腹が空いていなかったので、水分補給がてらのゼリー飲料とお昼用のおにぎりをひとつだけ購入。店舗の脇で荷物を下ろしてゼリー飲料を飲んでいると、カタントトン、と音が聞こえてきて、すぐそばの高架を真っ赤なかわいい電車が走っていった。これまでのJRの銀色の車両ではない。そういえば、先日母が「徳島には線路も道路も走れるバスが走っているらしい」とLINEで教えてくれた。DMV(Dual Mode Vehicle)といい、2021年12月から世界で初めて運行された形式の乗り物だ。さっき通り過ぎた海陽町役場の壁面に掲げられていた「世界初の走るまち」というのは、これのことか!

時刻表を調べてみると、ちょうど進行方向、しかも遍路道のすぐ脇にある海部駅にあと12〜13分で電車が戻ってきそうである。急いでザックを背負い、そこまでのルートを少し小走りで進んだ。8:20、海部駅に到着。しばらく待っていると、カタントトン、と音をたてて赤い車体がやってきた。おお…、見えない!防音壁がこちら側に立っていたため、辛うじてバスの屋根の部分がちらりと見えるのみ。しまった、無人駅だからホームまで登っておけば近くで見れたかもしれないのに、あえて「引き」で待ってしまった…。しかも走ったことで、荒れていた喉の調子を悪化させてしまった。空咳がひどい。

消化不良を抱えつつも、先へ向けて歩を進める。ちなみにさっき急いで走り過ぎてしまったルート沿い、海部駅の手前にある「生本旅館」さんは、ごはんがボリュームたっぷりでとてもおいしかった、遍路旅で一番のお宿だったと何人ものお遍路さんから聞いた。次回歩くことがあったら、ぜひ泊まってみたい。

海部川橋
海部川橋
海部川の河川敷
海部川。地元ではおよそ見ることのできない河川敷の広さ!

この海部の町から3kmほどは、「馬路越」の峠道と国道の2ルートがある。いつもなら峠をいくところだが、今回は敢えて国道を選択した。なぜなら、国道が海岸ギリギリを通っているからだ。今日は天気もいいし、絶対に景色が綺麗だろうと踏んでいた。

海部駅から歩くこと15分、果たして道は海岸沿いに出た。ほぼ90°のカーブを曲がった先に突如開けた海は、透き通るような碧!!予想以上の絶景に、思わず歓声が漏れた。ここは那佐湾といって、向かい側の那佐半島との間に挟まれた穏やかな海だ。一見すると河口かと思ってしまうくらい細長い形をしており、水深が浅いからか、まるで翡翠が敷き詰められているかのように水底がグリーンに輝いている。アオリイカやメジナ、鯛などが釣れる人気の釣りスポットでもあるそうだ。歩道が両側にあったが、もちろん海側を選んで爽やかな海風を受けながらウキウキで歩く。しかし、すっかり高くなった太陽がじりじりと首の後ろを灼いてくる。帽子が必要だ。

那佐湾沿いの国道
海沿いの絶景ロード
透き通る海
透明度がすごい
太陽が高い
遮るものなし

心地よい風に吹かれている時、いつもイメージすることがある。ありがちな言葉でいうと「心身が浄化されていくイメージ」なのだが、一応なんとなく手順がある。風を受けていると次第に自分の輪郭が地球の大気に溶けていき、凝り固まった頭や体は柔らかくほどけていく。体内におりのように溜まった毒素は風に押し流されて消え去り、全身が換気されて、新鮮な酸素で満たされる。脳みそも一回取り出して(イメージです笑)、清流につけてじゃぶじゃぶ洗う。スッキリした頭と感覚のセンサーを取り戻した体で、「頭でっかちの身重」から「ほどよく考え、身軽に行動」へのシフトチェンジ完了。ついでに肩こりと腰痛、眼精疲労もなくなっている設定だ。

このイメージのもとになったのは、『アーグの海』だ。「アーグ」とは星野架名さんの描いたSF漫画「緑野原学園シリーズ」に出てくる概念で、ある惑星とその惑星上に存在するものたちは皆同じ「アーグ(存在エネルギーみたいなもの)」を持っている。実は宇宙にはもっとたくさんの惑星系があり混雑しているのだが、アーグが異なるもの同士は見ることも触れることもできないので、お互いぶつからずに存在できているという世界観だ(コミックスがもう手元にないので微妙に間違っているかもしれないが、そこはご容赦)。

そして、毎年桜の時期になると、宇宙の彼方から「宴の海」がやってくる。その波が通過する間、同じアーグのもの同士は溶けあってほどけ合い、無垢に還る。人間や動植物はもちろん、建物などの人工物も全て地球と一緒に溶けてゼロに戻り、ひずんで無理が生じた部分をリセットするのだ。主人公は特異生命体なので地球のアーグに溶けることができず、友人たちがその歓喜の波に抱かれて微睡んでいるのをひとり見つめている、という印象的なシーンである。波が通り過ぎると人々は何事もなかったように日常に戻るが(宴の海の記憶は残らない)、宴の海の作用により世界のゆがみは解消されており、皆穏やかな表情で新しい一年を歩み出すのだ。現実世界もこうだったらどんなにいいだろう。

ターコイズブルーが美しい那佐湾の風景
「宴の海」

9:00ちょうど、湾を展望できるベンチを見つけたので、そこで休憩をとることにした。ザックを下ろすと一瞬羽根が生えたかと思うように体が軽くなる。手すりの際まで行って羽ばたくように腕を広げ、大きく風を受けながら、もっと軽やかになれ〜〜と再びイメージ。深呼吸をすると、どこからかまた「アキグミ」の香りが漂ってきた。

湾の奥は湖のように凪いでいて、そこにこんもりとした小さな島が浮かんでいる。「二子島」というらしい。今はこんなに穏やかな表情を見せてくれる那佐湾だが、長宗我部元親による「四国平定」、すなわち阿波侵攻は実はここから始まった。元親の末の弟はしま 弥九やくろうといい、母親違いではあるものの、元親は彼をとても可愛がっていた。弥九郎は武勇に優れていたが体が弱く、療養のため有馬温泉に湯治に出かけることに。その途上で嵐に見舞われたため船をこの那佐湾に避難させたところ、すわ、長宗我部の急襲かと思い込んだ地元の海部氏が攻撃したのだ。

当時元親は土佐の東部を平定し終えており、じきに隣の海部に攻め入ってくるのではないかと緊張が高まっていたのである。弥九郎は逃げるは武士の恥、と抗戦したが二子島まで追い詰められ討ち取られてしまった。1571年のことだ。元親は弟の死に激怒してすぐさま海部城を攻め落とした。これが阿波侵攻の口火となり、その後10年に亘る「天正の兵火」に繋がったという。弟を思う元親の兄弟愛、と取ることもできるが、時代が時代だけに、弥九郎をおとりにして隣国に攻め入る口実としたのでは、という説もあるらしい。

歴史の妙だが、長宗我部家は徳川との戦い(大坂の陣)で豊臣方についたため、敗戦により元親の息子たちは処刑されてしまい、直系は断絶した。弥九郎の子孫(島氏)は辛うじて生き延び、土佐藩の下級藩士として長く仕える。そして明治維新を迎え、約250年の時を経て長宗我部姓の復姓と当主の継承が認められた。現在の長宗我部家当主は、弥九郎の末裔なのである。

湾を望むベンチで休憩
素敵ポイントで休憩
二子島
いまは穏やかな海に浮かぶ二子島

小休憩を終え歩き出してすぐ、山ぎわの小さな窪みに田植えを終えた田んぼがあって、その上を陸橋が通っていた。ふと「ここなら例の電車がよく見えるのでは?」と思い時刻表を見ると、あと10分もしないうちにこのあたりを通るではないか!どうやら走行区間はそんなに長くないようで、さっき海部駅を出ていったのがもう折り返してくるようである。

ここで電車を待つことにして、ザックからおにぎりを取り出して食べた。どうせならさっきのベンチのところでゆっくり食べればよかったのだが、急に小腹が空いてきたのだ。自分のザックは一番上の蓋みたいにかぶせる部分が収納になっていて、背中側にジッパーがある。買っておいたおにぎりやパン、ナッツバーなどの携帯食をそこに入れておくのが常になっており、ザックを下ろさずにその「ランチボックス」から食べ物を取り出す技が身についた。うわー、おにぎりのキムチが白衣についてしまった!とかやっているうちに真っ赤な電車がやってきて、守備よく動画に撮ることに成功。満足。

DMV(鉄道区間)
電柱に貼られた東洋大師のシール
日焼けしてしまっているが、「東洋大師」のシール(下)

二子島を左に見ながら歩いて、「馬路越」と合流するあたりで那佐湾が終わる。那佐半島の付け根を越えたら前方に見えてくるのは別の海、宍喰ししくいの海岸だ。ちょうどその付け根のあたりで電柱に珍しいへんろシールが貼られているのを発見した。日焼けして薄れてしまっているが、「東洋大師」と書かれているのが読める。東洋大師(明徳めいとく)は四国八十八箇所の番外霊場、弘法大師ゆかりの真言宗のお寺だ。今日歩く区間にはいわゆる「札所」や別格霊場はないが、お宿のほんの手前にこの東洋大師があるので、ここにお参りをしていこうと思っている。

電柱の少し先からぽつぽつと民家が現れ始め、「かいつミルク」と看板のかかった休憩所が出てきた。かつては牛乳屋さんだったのだろうか。日陰を求めて中に入ってみるとベンチがあり、入口のガラス戸にはここから先にあるお宿の連絡先一覧が貼られていた。道路の向かい側にはトイレも設置してくれているようだ。暖簾のように吊るされたカラフルな鯉のぼりがふわふわと風に揺れるのを眺めながら、手持ちの水を飲んでひと休みした(休みすぎ?笑。だって、暑いんだもん…)。

海津お遍路休憩所
海津お遍路休憩所。昔は牛乳やさんだったのかな?
休憩所の内部
風の入るベンチスペースは縁側の気分

建物の中を探索してみると、ここで休憩したお遍路さんたちの納め札がたくさん貼られている。額縁に納められた錦の納め札(巡拝100回以上)もあった。棚の上にひっそりとディスプレイされた民芸品には見覚えがある。阿波踊りのミニチュアだ。薬王寺に着く手前、日和佐の町の民家の縁側に同じシリーズのミニチュアが置いてあり、あまりにも楽しげで印象に残っていたのだ。徳島の人はやっぱり阿波踊りが好きなんだな。

阿波踊りのミニチュア
かいつ休憩所の阿波踊り
阿波踊りのミニチュア
日和佐の民家にあった阿波踊り

休憩所を出ると、道路がまた海岸に近づいた。今度は那佐湾と異なり沖の方まで視界が開けているので、浜辺の碧がかった色からだんだん濃紺へと近づいていくグラデーションが美しい。雲はもうすっかりなくなり、水平線に小島が点々と浮かぶ様子が綺麗に見えた。道沿いにはドライブインっぽい造りの食事処やラーメン屋さんがあり、これまでけっこうな数の廃墟レストランを見てきた身としては、営業している雰囲気を感じるだけで嬉しくなって大応援したくなる。まだ開店前で入ることができなかったのが残念だ。

宍喰の町に入る手前で、怪しい遍路道があった。「黄色い地図」には国道から左(海側)に分岐して浜辺を歩くルートが示されていたが、YAMAPはもちろんのこと、「Henro Helper」にもその道の存在がない。これかも?と思われる草道の入り口には、朽ちた赤いコーンが転がっていた。Googleストリートビューによると10年くらい前までは「古道」の道しるべが出ていたようだが、もはやその支柱すら跡形もなく、一時はバリケードされていたこともあったようだ。赤いコーンはその残骸だった。昨日、薮に消えていった堤防沿いの道を思い出す。地図にあって、現地に道しるべがないパターンは危険の香り。回避しておとなしく国道沿いを進んだ。

海沿い絶景ロード・再
ツツジの咲く石垣
ツツジの花盛り

10:25、「道の駅 宍喰温泉」に到着した。大きなヤシの木が植えられていて、南国チックだ。目の前に広がる大手海岸(宍喰海岸)は一年を通じていい風が吹く西日本屈指のサーフスポットで、季節を問わずサーファーが訪れて賑わうそうだ(水深が深いため遊泳は禁止)。道の駅名に「温泉」と冠されているとおり、隣接する「ホテルリビエラししくい」にはオーシャンビューの温泉があり(残念ながらちょうど清掃時間帯だった)、レストランで食事もできる(残念ながらランチは土日祝のみの営業だった。…笑)。

道の駅 宍喰温泉
道の駅 宍喰温泉
太平洋と椰子の木
目の前に太平洋。ヤシの木が南国感を高めてくる

道の駅本館の方にはレストランはなく、物販のみのようだった。まだそれほどお腹は空いていなかったのだが、なにせ暑い!何はともあれ建物の中に逃げ込んで、冷房のきいた館内で涼を取りつつ水分補給できるものを探した。物産コーナーには地元で採れた魚や野菜、加工品がたくさん置いてあり、「酒盗しゅとう(鰹の内蔵の塩辛)」なんてものもあって気になるが、歩き遍路の辛いところは生物や重量のあるお土産を買えないところだ。柑橘ブレンドのジュースがさっぱりして良さそう、と思いチョイス。なんとなく馬路村の柚子のイメージでこのあたりの商品かと思ったら、北山村(和歌山県)って、ウチの方が近かった(笑)。

「道の駅 宍喰温泉」は例のDMVの終着駅でもあるようで、ジオラマや体験コーナー、撮影スポットなどで推しに推していた。そういえば入口のところにバス停があったな。日差しはきつかったが日陰にいれば風は爽やかなので、ヤシの木の木陰で「じゃばらまる」を飲みながら休憩をとった。靴を脱いで芝生に座ると、ひんやりとした土の感触が心地よい。今日のお宿までの残り距離は10kmと少し、どんなにゆっくりしても日が暮れて焦るということはないだろう。海風に吹かれながら30分ほどゆっくりした(なんなら、ちょっと寝てた)。

DMVが走るジオラマ
DMVが走るジオラマ。青い子もいるのね
しばらく芝生でのびていた
じゃばらまるのジュース
和歌山産!

阿波から土佐への関所越え ー古目峠ー

11:00、「道の駅 宍喰温泉」を出発した。太陽はいよいよ高くなり、もはや初夏の陽気だ。ショートカットしようと道の駅の敷地からそのまま裏道(遍路道)に下りると、その四つ辻に立派なしるべ石が立っていた。この現代仕様の道しるべ、なんだかものすごく久しぶりに見た気がする。21番の太龍寺を出た時、舎心ヶ嶽の案内以来では?石柱は通常は正方形で、ひとつの面にひとつの札所が書かれているのだが、これは少し横に長くて、表の面にふたつ並べて書かれていた。23番 薬王寺48km、24番 最御崎寺42km。は、半分きた?!いや、もう次の札所の方が近い!暑さにへばっていたが、ちょっとやる気が出てきた。地図に載っていた距離より合計が長い気がするけど、気にしない。

15分ほど宍喰の町を歩き、宍喰川を越えるカモメの橋(宍喰橋)を渡る。この橋はもともとは2連のアーチだけだったのだが、その形が「カモメが風を切って飛ぶ姿に似ている」という町の人たちの声を受け、あとから頭の部分をとりつけたのだそうだ。車道専用で歩行者用の橋が脇にあるので、近くからカモメを見ることができた。このあたりは今は合併して海陽町となっているが、かつては「宍喰町」といった。宍喰は阿波と土佐の国境の町。かつてはこの橋の袂で土佐へ旅立つ家族を見送る光景が見られたのかもしれない。

へんろ石
中間地点を越えた!
カモメ橋
カモメ橋(宍喰橋)。かわいい

カモメ橋を渡ってほどなく、小さなお堂があった。番外霊場・古目こめ大師だ。明確な起源は不明だが、270年前に大師堂を修復した記録があるそうで、少なくともそれより前からこの地で祀られていたようだ。お堂には「発心道場徳島最南所」と記された札がかかっている。そう、ここは徳島で一番南の端にある大師堂なのだ。「願わくば自他もろともに仏の道を悟りて、すみやかに解脱の彼岸へ至らん」ーー。1番札所・霊山寺から歩いてきた12日間、250kmの道のりを思い手を合わせる。徳島の地は人も風土も温かく、作法も何も分からず歩き始めた旅人を優しく見守ってくれた。

四国遍路のお参りでは勤行次第ごんぎょうしだいに従って何種類かのもんや真言、経文を唱えるのだが、私が一番好きなのは最後の結びに唱える「向文こうもん」だ。「願わくは功徳くどくを以てあまねく一切に及ぼし、我等と衆生しゅじょうと皆ともに仏道をじょうぜん。」自分が少しずつ積んだ善行がみんなの為になったらいい、なんて何と豊かな考え方だろう。

古目大師
古目大師
「発心道場徳島最南所」の札
徳島に別れを告げる

お参りを済ませて後ろを振り返ると、高台への避難階段があった。このあたりは小島が点在する入り組んだ地形で、台風には強いのだが津波となると被害が大きい。さっき歩いてきた浅川と同様、教訓を刻んだ津波碑が数多く残されており、古目大師も何度も流されては建て直されてきたそうだ。土地勘がないので、こういった避難路の指示を都度頭の隅に置きながら歩いていくことになる。

古目大師からいくらも行かないうちに、国道ルート(とこトンネル経由)と古目峠ルートの分岐が出てきた。公式(?)は←表示、国道推しのようだ。水床トンネルは全長638m、徳島と高知の県境のトンネルだ。そちらを通ればおそらく半分くらいの時間で県境を越えられるだろうが、今日はお天気良好、時間にも余裕があるのでもちろん峠をいく。

津波避難所の階段
随所にある避難階段をマークしながら歩く
古目峠への分岐
国道ルート(水床トンネル)と峠ルートの分岐

分岐のカーブミラーを峠側へと直進すると、「古目関所跡」の碑があった。今は人っこひとりの気配もないが、ここが「国境」だった時はきっと物々しい雰囲気で、みな固唾を呑んで役人が手形を改めるさまを見守ったのだろう。イミグレーションの審査官に何を聞かれるのかと緊張するのは何百年の時代を経ても同様だ。「古目」の由来は「古くから目を付けられていた」から来たという説もあるらしい。大名にとっては自国の領土から逃げていく領民も、他国の領土から逃げてくる領民も、どちらも厄介な存在だっただろう。

関所跡から峠の入口まではすぐだったのだが、分岐は伸び放題の木々に埋もれていて、右手の浄化センターの建物に気を取られていたら通り過ぎそうになった(昨日大坂峠でやらかしたパターン)。ここにもやはり「へんろみち保存協力会」のへんろ札はなく、手作り感満載の立て看板が立てられていた。力強い筆書きの「旧土佐街道」の文字に、梵字のへんろシールがかっこいい(独鈷杵マークと同じく時々出てくるが、写真に撮ったのはこれが最初みたい)。峠に入る前に、慈眼寺の「め」印飴で糖分をチャージした。

古目関所跡
古目関所跡
古目峠 入口
古目峠 入口
「め」印の飴
どこにもピントが合ってない 笑

11:40、古目峠道に入った。始めのうちは平らな草の道が続いてなごみ系だったのだが、杉(檜?)の植林帯に入ったあたりからなかなかの傾斜になる。両サイドはシダの枯葉だ。この道の何が大変って、落ち葉があまりにもふっかふかに積もっていて、登りに足をかけると ふわぁ…と包みこまれるように下に沈んでいくところだ。道が崩れて付け変わったのか、倒木の横をすり抜けていくところもあり、奥にへんろ札がなかったら行き止まりのように見えて引き返すところだった。

これが「踏み跡がはっきりしない道」、「荒れている峠道」というやつか、と足元の感触から体得する。なんとか人の手が入っており道しるべを頼りに進むことはできるものの、大雨のあとや植物が繁茂する夏季、また早朝や夕方などの薄暗い時間帯は難易度がグンと上がりそうである。計算したわけではないが、真昼に通る感じになっていてよかった。思い返せば、「へんろ転がし」と名高い焼山寺やお鶴・お龍への道は、なんだかんだで歩く人は多くて踏み固められているし、落ち葉は綺麗に払われて整備も行き届いていた。傾斜に気を取られてわーきゃー言っていたが、実はとても歩きやすくしてくれていたのだということがよく分かった。

登りが始まった
登りの開始
倒木の横をすり抜ける遍路道
倒木の横をすり抜ける。奥のへんろ札 good job
枯葉が積み重なった登り坂
干し草の上みたい(乗ったことないけど)

ある程度登っていくと、今度は松林になった。道行きを案内するかのように、足元に大きなまつぼっくりがたくさん落ちている。まんまるのまつぼっくりがお行儀良く道に並んでいる様子はリスか何かが置いていったみたいで、絵面的にはちょっとメルヘンな感じ。年季の入った倒木を越えつつ、たまーに現れるへんろ札と、まつぼっくりを追いながら先へと進む。 

まつぼっくりと松林
まつぼっくりの道
大量のまつぼっくり
…ありすぎ
点々とまつぼっくりが続いている
気分はヘンゼルとグレーテル

まつぼっくりゾーンを越えると急に植生が変わった。原生林、と言う感じの深い森が広がっていて、真昼だというのに薄暗く、少し心細くなる。こんな時の心の拠り所は、圧倒的な緑の中にポツンとかかっている、小さな小さなへんろ札。道迷いではない、それは大きな安心材料である。

自分が落ち葉を踏む ざく、ざく、という音だけを聞きながら、まるで世界にひとりだけになったのではないかという錯覚に陥りそうになっていると、どこからか12時を知らせる音楽放送が流れてきた。田舎でよくある、7時、12時、17時に流れるみたいなやつだ。…ふーー……。人間の営みの気配に我知らず大きなため息が出て、一気に緊張の糸がほぐれた。大丈夫、ここは人の世、異世界に迷い込んではいない。ひとつ深呼吸をして、峠を目指す。

雑木林を登っていくと頂上は小さな広場になっていて、頭のないお地蔵さまと「神社五里半」と刻まれたしるべ石があった。特に表示はなかったがここが「古目峠」のようで、背後の木にひっそりと「←徳島 高知→」と書かれたお手製の県境の札がかかっていた(痛恨の極みだが、なぜか写真を撮っていない)。お地蔵さまの台座には文字が刻まれている。俗名 與作、安永十⬜︎年三月二十一日。これは、お墓なのかもしれない。現代の歩き遍路は「アスファルトは足が疲れる」「風情がない」と文句を言うが、全道がこんな徒歩道だった時代、遍路はまさに命懸けだった。旧遍路道の道沿いには、志半ばで行き倒れた遍路を地元の人々が供養した「遍路墓」が建てられていることは多い。

森の中に小さく見えるへんろ札
人工物(へんろ札)が救世主に見える
お地蔵さまと神社へのしるべ石
古目峠。お地蔵さまと神社へのしるべ石
急な下り道
さっそくジェットコースターみたいな下り

峠を越えると、道は急激な下りに転じた。岩がむき出しになっていて、さっきまでの絨毯みたいな道と対照的だ。徳島県側は足元ふかふかの針葉樹林、高知県側は足元ごつごつの自然林。峠道は尾根の左右や峠を境に森の様子が変わることがよくあるが、ここでは県も変わるからか、全く雰囲気が異なって面白かった。さすが「関所越え」の峠、まさに国が変わったみたいだ。

山の中腹あたりからは立派な苔むした石段が続いた。ほんの百年ちょっと前まで阿波と土佐を行き来する道はこの峠道しかなかっただろうから、なんとかして歩きやすくしたいという執念にも似たものを感じる。しかし、高知側、段差がすごい。ほぼ崖みたいなところを手をついて滑り降りなければならず、振り返ってみて「逆打ちの人はこれを登れるのか…?」と戦慄したところも何箇所かあった。しかも逆側から見ると目印がピンクテープしかなくて、見落としそう。

壁のような段差
降りてきた「壁」。これ登れるのか??
苔むした石階段
苔むした石段が続く
石段→段差→沢越えと続く
石段→段差→沢越えのコンボ

麓が近づいてくると傾斜はやっとなだらかになったが、今度はシダの藪ゾーンである。この時期はまだ枯葉の状態で足元がふかふかするだけだが、夏にかけて新しい葉が伸び始めたら道を隠す勢いになるだろう。二箇所ほど「お接待のハサミ」が置いてあったので、チョキチョキ。このハサミ、徳島側にもぜひ置いてほしい。そのうち石垣などの人工物が見えてきて、苔に覆われた砂防ダムを過ぎると舗装路になった。時刻は12:20。古目峠の所要時間は40分、ちょっとドキドキもしたが、楽しい峠道だった。もっとたくさんの人が歩いてくれたらいいなあ。

石垣が出てきた
石垣など生活の痕跡が出てきた
砂防ダムの横を通る
砂防ダムも年季が入っている

しばらく道なりに下っていくと集落に入り、古い民家が連なる細い路地を歩いていくと突然建物が途切れて漁港の前に出た。高知県東洋町、「かんのうら」の漁港だ。土佐側の番所、「甲浦東股番所跡」もあった。土佐の審査は厳しく、やっとの思いで古目峠を越えてもここで入国の手形改めを受けて追い返されることもあったそうだ。峠のお墓の主は、泣く泣く引き返す途中で力尽きてしまったのかもしれない。

甲浦には番所のほかに参勤交代のための御殿もあったそうで、港を取り囲むように家々が軒を連ねる様子は古くからの街道の雰囲気を留めていた。漁船たちはもう今日の仕事を終えたのだろう、陽光のもと穏やかな波に揺られてひと息ついている。日本の漁港の海の色は濃紺のイメージなのだが、ここの海は目が醒めるようなエメラルドグリーンだ。船の内側の塗装もそれに合わせたかのような明るい緑色で、ちょっと外国の港みたい。水面を覗くと、熱帯魚っぽいものが逃げていった。全てがあまりにもキラキラしていて、ついさっきまで鬱蒼とした森を歩いていたのが嘘のようだ。

甲浦の漁港
甲浦の漁港
甲浦東股番所跡
甲浦東股番所跡
船体に反射する水面
絵葉書みたい

甲浦は本州との連絡橋ができるまでは四国の東の玄関口となる交通の要衝であり、神戸港(のち大阪南港)と足摺岬を結ぶフェリーが1日1回寄港していたのだそうだ。土佐日記にも記載があり歴史も古い。しかし、船体に描かれた赤い鯨がシンボルマークの「フェリーむろと」は、明石海峡大橋の開通を受けて1997年(平成9年)に航路休止に。その後第3セクターなどがなんとか航路を継続しようとしたものの、2005年(平成17年)を最後にフェリーがここに来ることはなくなった。今はゆったりした雰囲気ののどかな港だが、往時は多くの人で賑わっていたのだろう。

港はV字型になっていて、そこから東を東股、西側を西股というらしい。ちょうど中間の谷間になっているところに熊野神社があった。見上げる階段の上の大きな楠の木が印象的だ。「西股」の端まで歩いていくと、湾の奥に公園があった(甲浦西股公園)。船着場を望む藤棚はちょうど満開である。公園にはすべり台や四阿もあって、地域の憩いの場となっていそうだった。時刻は12:45、ここでお昼休憩にしよう。

甲浦西股公園
甲浦西股公園
藤棚から船着場を望む
藤棚から船着場を望む

藤棚の下のベンチに座ると、まるで印象派の絵画のような風景が広がっていた。さっき(というかだいぶ前)おにぎりを食べてしまったので昼休憩自体は手持ちのお菓子と水で済ませたのだが、なかなかに去りがたい。夢中で写真を撮っていると一瞬強い風が吹き、金剛杖がカラリと音を立てて倒れた。早く前へ進みなさい、とお大師さまに言われたような気がして、出発の支度をする。満開の藤の簾を透かして見える真っ青な空とエメラルドグリーンの海、穏やかに波に浮かぶ小舟たち。甲浦は、高知といえば鮮明に思い出す美しい記憶のひとつだ。

藤の花と船着場
「印象・甲浦」
倒れた金剛杖
出発のとき
熊野神社の大楠
熊野神社の大楠

 

【番外霊場・明徳寺/東洋大師(めいとくじ/とうようだいし)】本尊:弘法大師

13時過ぎに甲浦西股公園を出発した。そこからの道沿いにも閉業して長いのであろう古い旅館が何軒かあって、フェリーが来ていた頃は宿場町としても賑わっていたのだろうなあ、と思わされる。一車線道路の両脇に辛うじてグリーンラインで歩道を作ったような狭い道を抜けていくと、甲浦小学校があった。昼休みだろうか、子どもたちがボール遊びをしている。学校名よりも窓にでかでかと貼られた「緊急避難所」の文字の方が主張しているが、久しぶりに「生きている」小学校が見られて嬉しい。

小学校の向かいは小さな公園になっていて、日露戦争戦没者の慰霊塔が建てられていた。実はここまで四国の田舎を歩いてきて、少なくない数の日露戦争慰霊碑を見た。集落の片隅にひっそりと佇む、まだ「村」だった時代のものと思われる慰霊碑の数々。よくぞここまで日本の隅々から徴兵したものだ。ひとりひとり刻まれた名前に「徴兵者数108万人、死者約9万人」からは読み取れない個々の人生を思わされる。

3つ又に分かれた路地
探検したくなるような路地
日露戦争戦没者慰霊塔
日露戦争戦没者慰霊塔

平和公園の隅には「江藤新平君遭厄之地」と書かれた石碑もあった。江藤新平って佐賀の人じゃなかったっけ、と不思議に思ったのだが、政争に敗れて下野したのち、「佐賀の乱」の首謀者として指名手配されてしまい、薩摩(西郷隆盛)や高知のかつての同志に団結を訴えながら逃走していたところをこの甲浦の地で捕縛されたのだそうだ。旅人として訪れると「はるばる来た果ての地」のような感覚になってしまうが、どの土地にもさまざまな歴史の積み重ねがある。

速やかに彼を捕らえた「指名手配制度」はこれまでの人相書によらず写真を配布することで罪人を捜索するもので、彼自身が司法卿として下野の前年に制定したものだった。被適用者第1号が制定者本人になるなんて、なんという皮肉だろうか。近代化への黎明期、彼を逮捕するには最新の制度が適用されたのに、裁判ではほぼ弁明の機会を与えられないまま死刑判決が下され、翌日には斬首・さらし首にされるという前時代的なものだったという。政治的に対立していた大久保利通の思惑もあったというが、司法の道に身を置いていた彼にとっては無念の極みであっただろう。「遭厄・・之地」と書かれた碑は大正期に甲浦の青年団によって建てられたらしいが、甲浦の人々の目にも「あまりにも気の毒だ」と映ったのかもしれない。

江藤新平のことを改めて少し調べてみると、佐賀藩の下級武士の出身だったが頭脳明晰で明治維新で活躍し、初代司法卿となった人物で、「佐賀の七賢人」に数えられる。首都を京都から移転して江戸を東京と改称すること、京都と東京を鉄道で結ぶことを提言したほか、司法卿となってからは三権分立や法治制度、警察制度の整備に努め、民撰議院設立の建白書へも署名したりなど、いま当然だと思っている日本の社会の仕組みを形作ってくれた人のひとりだ。学生の時はただ暗記するのに必死になっていたが、30年近くを経た今、それがいかに有難いことだったかが実感を伴って理解できる。少しは大人になれたと思っていい、かな?

ぶっちょう造りの家
ぶっちょう造りの家。縁側でまったりしたら気持ちよさそう
タイルと白い窓枠の古民家
タイルがかわいい

平和公園から「小池橋」という小さな橋を渡ると白浜という地区に入り、まっすぐに伸びた街道沿いには伝統的な町家が多く残っていた。上下に開閉できる戸板がある特徴的な構造は「ぶっちょう(蔀帳)造り」といい、高知県の海岸部から徳島県南部にかけてよく見られるそうだ。昼間はこれを開いてウワミセはひさし、シタミセは縁台になり、夜や嵐の日は閉じて雨戸になる。別名「ミセ造り」ともいい、かつてはここを通る旅人たちを呼び込んで商売をした名残でもあるのだろう。

ぽんかんと鯨のレリーフが印象的な「河内川かわうちがわ橋」を渡ってしばらくすると国道と合流し、目の前に白浜海岸が開けた。沖合50mまで遠浅の海が続く四国屈指の砂浜海岸で、どこまでも広がるターコイズブルーの海は「見る専」の自分でもちょっと足をつけてみたくなる。対岸に見えるのは赤葉島といい、干潮の時は砂州が現れて徒歩で渡ることができるそうだ。河内川が滔々と注ぎ込む河口のそばから振り返ると、浜の向こうに避難所や道の駅の施設が見えた。峠から来たので前を通ることができなかったが、国道沿いの「道の駅 東洋町」では地元で獲れた魚を使ったお刺身やどんぶりを食べることができ、隣にはキャンプ場やバーベキュー施設もあるらしい。もちろんDMVはここにも停まる。

白浜海岸
白浜海岸。もう誰か泳いでる
赤葉島
赤葉島。今なら渡れそう?

南国の海を眺めながらしばらく国道を歩いていくと、「甲浦坂トンネル(全長150m)」が現れた。迂回路はなさそうだったのでそのまま進んだが、歩道の段上げどころか白線の外のグリーンラインも60cmくらいの幅しかなく、何気にこれまでで一番危ないトンネルだった。車通りが少ない時で助かった。トンネルを抜けた先で眼下に広がるのは、宍喰と双璧をなすサーフィンのメッカ「いくサーフィンビーチ」だ。色とりどりのサーフボードを抱えた人々が列をなして波打ち際へと歩いていく様子が、遠目からでもよく見える。

甲浦坂トンネル
甲浦坂トンネル(全長150m)
生見海岸
生見海岸

生見地区はマリンスポーツで訪れる人が多いためホテルや民宿が密集しており、ここでお宿をとるお遍路さんも多い。大砂からここまでだと一日の距離が短すぎるのでもう3.5kmほど先の野根のねまで歩くことにしたのだが、もしここに泊まったらお宿の目の前がビーチなので海を楽しめそうだ(眺める専門)。今日の朝から見かけるようになったずんぐりむっくりなお遍路シルエットのへんろ札は、「東洋大師」を案内し始めた。この道しるべ、明徳寺の人が作ってくれているのかも。薬王寺から鯖大師までは鯖大師(八坂寺)、鯖大師から東洋大師までは東洋大師(明徳寺)、みたいに担当してるのかな。

集落に入ってすぐの道沿いに、24時間営業のコインスナックがあった。ラインナップはなんと、カレー、ラーメン、肉じゃが、もつ煮込み…。気にはなったのだが、サンプルの缶のあまりの日焼けぶりに挑戦してみる勇気が出なかった。このあたりはレジャースポットな割にコンビニがなく、食堂もほとんどない。たまに現れるのはみかんの直売所くらいなので、夜中に食べ物を調達したいという需要はそれなりにあるのかもしれない。

東洋大師へのへんろ札
「東洋大師」お手製?のへんろ札
コインスナックコーナー
コインスナック、24時間営業
色褪せた自販機
チャレンジする勇気はなかった…

生見海岸を出たところで、またテンションの上がる道路標識が出てきた。「高知 118km」の青看板だ。高知キター!同時に、これまでずっとトップに書かれていた「室戸岬」は二番手に下げられる。距離表示として当たり前のできごとであり、車を運転している時にはなんと思うこともないが、歩いてきてこの現象を見ると感慨も一入だ。そして、最初見た時は途方もないと思った室戸岬はあと35km、「不可能ではない距離」になった。千里の道も一歩から、とか、コツコツと積み重ねれば結果となって現れる、とか、「言われりゃ分かるけど、なかなかそうはいかないのよねー」と言いたくなる格言を、遍路道では物理現象として体感する。

高知118kmの青看板
行き先表示に高知が!そして室戸はもはや圏内に入った
看板下のへんろ標識
謎のへんろ矢印。公式(→)には道がなかった…

この標識の柱にあった案内矢印は奇妙だった。この形式の道しるべ(正式名称は「みち案内表示シート」というらしい)はずっと「徳島県」と書かれていたので、国道沿いに変わって「国土交通省」となっていたのも目新しいのだが、下に白いペンで「↑(直進)」と手書き修正されている。右の道ってどれなんだろう、と道路の向こうを見てみると、あからさまに危険な草道が見えた。遍路道の激ヤバ最高峰、「地図にはあるのに現地に道しるべがない道」だ。どんなに車道を避けたくても、あれはイカン…。修正通り直進する。

道なき道
→矢印の示す先。これは、絶対に違う
相間トンネル東詰休憩所
東詰休憩所。さっきの距離表示となんか違うけど、気にしない

道路標識の少し先に「あいトンネル東詰休憩所」と書かれた四阿があったので、その日陰で地図を確認した。この休憩所の正面から山手に分岐している車道が「相間トンネル(全長288m)」を回避する旧道のようで、そんなに難易度も高くなさそうだった。さっきの→矢印はこの道を指していたのかもしれない。手前にありすぎてあの草道に突っ込むお遍路さんが多発して、誰かが修正を加えたのだろうか(ついでに休憩所のところで「→」を加筆してほしかった…)。

旧道は落ち葉がかなり路面を覆っていたものの、しっかりセンターラインのある片側一車線道路で、これまで通った迂回路で一番広かった。ちなみに眺望は特にない。

迂回路へ上る
東詰休憩所の前から、国道を渡って迂回路へ
相間トンネル出口
「相間トンネル」出口

トンネル出口から国道沿いを10分ほど行くと、東洋大師への分岐があった。国道とその小道を隔てるものは木立ひと筋分しかないというのに、足を踏み入れた途端に すう… と周囲の空気が冷たくなるのを感じる。自分はまったく霊感もなにもないのだが、そんな自分でさえ、あ、神社ある、とすぐに分かるほどの変化だった。果たして、その主はほどなく姿を見せた。「八幡宮」。なんだか中に入るのは少し怖くて、鳥居の外から手を合わせるだけにした。古びてまろくなった狛犬はちょっとかわいかったので、頭をナデナデしてご挨拶(怒られたりして笑)。

東洋大師への分岐
東洋大師への分岐(↗︎)
野根八幡宮
野根八幡宮

野根八幡宮を過ぎてすぐ、ほぼお隣さんと言える場所に「東洋大師(明徳寺)」はあった。時刻は14:55。気の向くままに歩いてきた割には非常に順調である。朝早くに出発した甲斐があった。お宿もすぐ近くなので、お参りのあと、16時くらいには着けるかな。チェックインのあと、浜辺を散歩してみよう。

東洋大師は四国八十八箇所霊場の番外札所で、もともとは「野根大師」と呼ばれていたが、1960年(昭和35年)に野根と甲浦が合併して東洋町になったときに「東洋大師」と名を改めたそうだ。ここにも弘法大師の湧水伝説がある。空海が四国霊場開創のためにこの地に立ち寄った時、地元の農民から「この土地は涸れ谷なので、水に不便している」との申し出があり、それを受けて空海が谷間の一点を錫杖で突いて加持祈祷したところ、清水が溢れ出しやがて滝となった。2mに満たない小さな滝だがそれ以来涸れたことがないそうで、今でも霊水として汲んでいく人は絶えず、滝行体験もできるとのことだ。

番外霊場・東洋大師 山門
番外霊場・東洋大師 山門
天を突く杉の大木
見上げるような御神木
御神木で森のよう
ここだけ森みたいになっていた

まず目を引かれるのは、背後に迫る山に生えている木よりも頭ひとつ、いやふたつ飛び抜けて聳える杉の御神木だ。それを見上げながら山門に近づいていくと、たくさんの五色の旗がはためいて華やかに出迎えてくれる。境内に上がると一面にテーブルセットやベンチが置かれており、花の鉢や造花でそこここが飾られていて、お寺というよりフラワーガーデンのようなかわいい雰囲気だ。

写真を撮っていると奥から住職さんが出てこられた。ラフな白シャツだったものの、がっしりとした体躯のコワモテの住職さんだ。昨日の鯖大師でのことを思い出して一瞬身構えてしまったのだが、気さくな感じで「おうおう、暑い中ごくろうさん、まあ座って休み。アイス食べる?」とあずきモナカのアイスをお接待してくれた。今日はずっと日差しを浴びながら歩いてきたこともあり、御神木の木陰でいただくアイスは染み渡る格別のおいしさだった。

住職さんは「今日は親子が泊まりに来るって電話があったのよ」と、通夜堂にえっちらおっちらと布団などを運び込んでいた。大正末期に国道ができるまで、ここから先へ行くには「ごろごろ石」「跳び石」「はね石」と言われる足場の悪い海岸沿いを行くか、室戸半島を突っ切って奈半利なはりへ至る「野根山街道」を行くかしかなかったようで、その前に「野根大師」で休憩をとっていく旅人は多かった。満潮で海岸沿いを進めないときは皆この通夜堂で寝て過ごし、翌朝早くに街道を越えていったという。そのため、ここで潮の様子を伺って時間を潰すことを「野根の昼寝」といったそうだ。

東洋大師 本堂
東洋大師 本堂
東洋大師の境内と通夜堂
お花たくさんでかわいい。奥の白い建物が通夜堂

このお寺はご本尊が弘法大師なので、お堂はひとつだけだ。住職さんは祈祷や魔除け、人生相談もされているようで、お参りのあと、いろいろな話をしてくれた。なかでも印象に残ったのは、これからしばらくの過ごし方についての忠告だ。地球のレベルが2つ3つと上がる時期にきていて、この5年間は産みの苦しみがある。何が起こるか予測がつかず来年平和にお遍路ができるとも限らないから、今年しっかり結願しておくように、と力強く励ましてくれた。地球のアーグが変化する時なのだろうか。サーファーみたいに華麗に波を捉えることはできなくても、乗り遅れることだけはないようにしたいものだ。
 

本日のお宿に到着!

16:55、東洋大師を出発した。気づけばなんと2時間が経っている。浜辺でマッタリする時間はなさそうだ。今日のお宿「まるたや」さんへは10分もかからず、17:05にチェックイン。今日はどこから歩き始めたのかとの問いに、大砂です、と答えると、そこからにしてはちょっと遅いような…?と不思議そうにされている。明徳寺でご住職とお話してましたと言うと、オーナーさんは「ああ、…なるほど」と苦笑していた。住職さんの話好きは地元でも有名のようだ。

ここ「まるたや」さんは、ひと月ほど前の3月10日に再オープンした、新装開店ほやほやのお宿である。前のオーナーさんが閉業されてから約2年、「黄色い地図」ではその閉業情報が折り込み紙で追記されていたのだが、それと入れ替わる形での再開だ。室戸岬の手前は四国遍路でも有数の宿泊空白地帯、ここに宿がなかったら歩き遍路が困るだろうと復活させてくれたのだ。まずは内部が荒れに荒れていたのを大掃除したそうだが、地元の方もとても喜んで支援してくれたという。そしてこの速報を教えてくれたのは、3日目の「お宿イレブン」のオーナーさんだった。薬王寺から室戸岬まで早い人は3日で歩くが、抑えめで4日で歩きたいのにいい距離にお宿がない…、と悩んでいた私に光明が差した瞬間だ。絶妙なタイミングでさっと救いの手が差し伸べられる、巡礼路マジックである。

二階の部屋に案内してもらってビックリ。座卓と布団の部屋で二間もあり、まるで大名さまの寝所みたいだ。広すぎて、衣紋掛けの隣に立てかけたザックに手が届かない(笑)空間を生かしきれていないが、荷物整理の間は机まわりのほぼ一畳で過ごしていた。お風呂も広々、昭和を思い出す総タイル貼りの立派な造りだ。この古民家は当初、相当な富豪のお屋敷だったのだろう。建物の立派さに終始感嘆していると、ユキちゃんからLINEがきた。「まるたやは、私に14畳の部屋を与えました…(驚)」あれっ?もしかして、今日同じお宿かな?

お宿「まるたや」
今日のお宿、「まるたや」さん
今日の寝床。広い
今日の「巣」。大名かっ!?

18:30、夕食。ダイニングに行ってみると、お膳の準備はひとり分だけだった。もしかしたらユキちゃんに会えるだろうかと期待していたのだが、彼女は夜のうちに仕事のメールの処理もしなければならないので、夕食はコンビニかスーパーで調達するスタイルに落ち着いているようだった。席につくと次から次へと小鉢が運ばれてきて、どれから食べるか迷ってしまう。ひとり分ずつ土鍋で炊くご飯は、地元のブランド「野根米」なのだそうだ。東洋町は小さな町だが、道の駅や産直に力を入れているようで、地元の産物に誇りを持っている様子が伝わってきた。おかずが美味しすぎて2杯ちょっと分の土鍋を完食。

夕ごはん
豪勢ごはん!
マッサージ機コーナー
リラクゼーションコーナー。爆睡した

小一時間かけて夕ごはんを堪能している間に洗濯もできあがっていた。ありがたいことに、洗濯&乾燥は無料(お接待)である。歩いている間ずっと気になっていた白衣のキムチも綺麗に取れてひと安心。まだこれから1,400kmはあるのに、ずっとシミをつけて歩かなければならないところだった。

洗濯物を取り込んだあと、リラクゼーションコーナーで脚をほぐしつつ高知市内のバスや電車(桂浜への行き方)を調べていたら、心地よすぎていつの間にか寝落ちしていた。昨日おとといで宿取りをがんばったし、今日はもうゆっくり寝ることにしよう。輝くエメラルドの海におもしろ峠道、歴史の数々に思いを馳せ、住職さんの説法を聞く。美味しいごはんでお腹を満たして、部屋に戻れば大名布団が待っている。そう、「札所がない区間」が味気ないということは全くない。満足感いっぱいで21時には眠りについた。 

 

 

 

 

↓「いいね」ボタンつけてみました。ポチっとよろしくお願いします m(_ _)m