【歩き遍路15日目】25番津照寺〜26番金剛頂寺、23.1km

室戸三山とがわの町並み

吉良川の伝統的家屋
吉良川の伝統的家屋

東の海を見ながらひたすら南下してきた4日間。そうやってようやく辿り着いた室戸岬を後にして、今日からは北へ向けて折り返す。左手に見えるのは土佐湾だ。津照寺から金剛頂寺までは大学生男子と道連れになった。考えてみると、そこそこの距離を誰かと話をしながら歩いたのはお遍路にきて初めてだったかもしれない。金剛頂寺の先にある「吉良川の町並み」がとても素敵で大フィーバー、気の赴くまま散策していたらその1kmだけで1時間も遊んでしまい、お宿に着くのが17時近くに。今日の区間は室戸市の中心部を通りお店もたくさんあったはずなのだが、どうもタイミングが合わず、結局お昼らしいお昼を食べないまま歩き通すことになった。

日付2025.04.24(木)
天候曇り時々雨(17℃〜20℃)
行程25番津照寺〜26番金剛頂寺(37,955歩/23.1km/↑396m ↓396m / 9h20m)  
難易度★★☆☆☆(金剛頂寺で登り下りがあるが、そこまで距離はない)   
06:30 朝食
07:25「うまめの木」出発 → 25番まで 4.6km
09:15-10:05 25番津照寺(滞在50分) → 26番まで 3.8km
11:05-11:50 26番金剛頂寺(滞在45分)→ 27番まで 27.5km
14:00-15:15 吉良川の町並み
16:45「おうち宿しだお」チェックイン
19:00 夕食
お宿おうち宿しだお【 個室2食付き / ¥8,000〜9,000 / 4室 / 16:00〜 】  
(4/19 8:35 tel予約)  
費用納経料 ¥500✕2寺
食 費 ¥470(ゆずバウム¥220、自販機飲料¥250)
洗濯代 -
宿泊費 ¥8,400
合 計 ¥9,870

 

・津照寺〜金剛頂寺にかけては室戸市で一番人口が多い中心部なので、飲食で困ることはない(はず)。
・時間があれば、金剛頂寺のあと不動岩&不動堂を経由していくのもよい(+1時間半くらい?)。不動岩の洞窟からも「空と海」の様子が見られ、空海の悟りの地はではなくこちらであったという説も。
・金剛頂寺から5kmほどのところにある吉良川の伝統的な町並みは見応えあり。通るだけでも楽しい。うっかり国道(海沿い)を行ってしまうともったいない。

【25番津照寺】
・室戸スカイラインを下りてからは平坦なアスファルト道
・本堂への階段がえぐい。下の大師堂・納経所にまた戻ってくるのでザックは置いていこう。
・階段途中の赤い仁王門は鐘楼門でもある。お参りの前に鐘を撞くのを忘れないように!
・階段の切れ目から左隣にある「一木神社」につながる道がある。神社の方が西側にあるので、津照寺からよりも金剛頂寺のある行当岬がよく見える。ただしこちらもなかなかの階段である。

【26番金剛頂寺】
・前半は平坦なアスファルト道、後半は良き山道。最御崎寺と標高は同じで、階段を登るか傾斜(ちょっとだけ岩ごろごろあり)を登るかの違い。下りも山道だが、そんなに長くはない。
・27番こうのみねじへ向かう際、不動岩に寄るつもりがない場合は途中の分岐で「四国のみち」方面へ行くこと。
・国道沿いの「道の駅キラメッセ室戸」にはレストランがある。月曜は全館定休なので注意。

 

ふたつの港〜津呂港と室津港〜

5:10、起床。まだ寝ていたい体を引きずるようにして、天気チェックから始まるいつものルーティンを開始する。足ケアをして、身支度を整え、荷物を詰め直し…お遍路生活も2週間を過ぎ、脳みそが半分寝ていても体が自動的にこれらをこなしていく。懸案だった写真データも寝ている間に全部クラウドに上げ終わり、出発の準備は整った。

6:30、朝ごはん。もちろんおかずはお魚で、もちろんおかわりする。卵は高知特産鶏「土佐ジロー」の卵とのことで、しっかりした黄身の味がパワーをくれそうだ。朝ごはんを食べながら今日の行程の話をするのもお遍路あるあるだが、北九州のおじちゃん(マツさん)は今夜のお宿も同じだということが判明した。お互いの健闘を祈りつつ、しばしそれぞれの道を歩く。

朝ごはん
朝ごはん
ヤシ?が植えられている国道沿い
南国風味の55号線

7:25、お宿を出発。今日も一日曇天のようだが、昨日ほどの湿気はなくて歩きやすい。薬王寺を出てからもう5日の付き合いになる国道55号線だが、この周辺だけやたら広々としており、両脇の歩道にはヤシっぽい街路樹も植えられていて、南国気分。少し歩いてから後ろを振り返ると(また振り返ってる笑)、ほつさきのある山とそこからくねくねと下ってくる室戸スカイラインが見えた。ここ数日間ずっと室戸岬、室戸岬と思いながら歩いてきたのに、ついにそこに到達してしまって、今日からはもうそれに背を向けて離れていくのだなあ。なんだか寂しい。

ほどなくしてお馴染みの「てんこもり道路標識」が現れた。そこに書かれた「←24番最御崎寺2km、25番津照寺4km→」という表示を見て、思わず「狭っ!」と声が出てしまう。最長距離が75.4kmという突拍子もない数字に上書きされてしまったので、札所間の距離がひと桁だと逆にびっくりするという謎の病に罹ってしまった。地図を見たところ、遍路道は今歩いている海岸沿いではなく一筋内側だったようなので、その先の三叉路で右折して集落内に入った。

室戸山とスカイライン
室戸山とスカイライン
最御崎寺2km、津照寺4kmの看板
距離が短すぎて逆に驚く事態に(笑)

集落内の道はおそらく旧街道(土佐街道)で、道路と海しかない国道側に比べると民家や商店の佇まいを見ているだけでも面白い。南国情緒満点の生垣に沿って歩いていて、見たことのない形の果実(?)を発見。調べてみるとバナナの花だった。こんな風に咲くのかあ。続いて現れた材木屋さんの店先ではボスっぽいキジ猫が睨みをきかせていて、ニャーニャー言いながら近づいてみたがチラリと一瞥されて終わった。

しばらくすると、向かいから見慣れた水色のバスがやってきた。行き先にジオパークセンターと出ている。昨日ジオパークセンターで「時間切れ」になったマツさんはお宿の前から始発(7:48)のバスで戻る、と言っていたので、まさにこれに乗るのだろう。ジオパークセンターはバスの終着点になっており、そこを起点に東(甲浦行き)と西(奈半利行き)で路線が分かれているのだが、こっち方面(奈半利行き)は民家の並ぶ旧道をメインに走る関係でミニバスが多いのかな。 

南国情緒溢れる街道
The 南国!
バナナの花
バナナの花、初めて見た!
材木屋さんの番頭猫
材木屋さんの番頭猫

歩きだして30分ほどのところに「王子宮」という神社があった。その苔むした佇まいになんだかすごく惹かれるものを感じて、鳥居をくぐってみる。遍路道沿いにはお寺よりも神社のほうが多いくらいで、その全てを回ることは難しいが、気になったところはできるだけ行くようにしていた。二礼二拍手でお詣りをしてから、失礼しまーすと声をかけて格子の間から本殿の中を覗くと、小さな捕鯨船や鯨の骨格模型のようなものが奉納されているのが見えた。漁の様子が描かれた大きな絵馬もある。さすが捕鯨の町の神社だ。

本殿から下りたところでちょうど神主さん(多分)がやって来られ、今はちょっと水が少ないけど、向こうに滝があるから見て行ったら、と教えてくださった。案内のとおり本殿の右脇の「兼山神社」からさらに奥に進んでみる。確かに水量としては少し寂しい感じだったが、社の後ろは一枚岩かと思うような崖が切り立っているので、一体どこから水がくるのかとても不思議だった。

津呂王子宮
津呂王子宮
王子宮本殿
王子宮 本殿

再び境内に戻ると、神主さんは地面を埋め尽くすように落ちている葉っぱを竹箒でせっせと履いておられた。楠は年に3回は葉を落とすので、その掃除が大変なのだそうだ。おとといの雨が拍車をかけている。ここは来る人も少ないですわ、とのことだったが、とてもいい雰囲気だったのでお詣りしていきたくなったんです、と感じたとおり伝えると、それは毎日掃除しよる甲斐がありますわ、と言って笑ってくれた。葉っぱの世話が大変だと言いつつも、大きな楠の木を見上げる神主さんの表情はどこか誇らしげだ。

鳥居を出ようとして、その脇に「奉寄進 南極捕鯨船団一同」と書かれた石柱が建っているのを見つけた。室戸の捕鯨の歴史はここ津呂で鯨組が組織されたことに始まるが、古式捕鯨が終了し、遠洋捕鯨に移ってからも津呂港がその基地としての役割を務めてきたのだという。もちろん今でも漁業は盛んで、王子宮の秋祭りの見どころは猟師町ならではの勇壮な「あばれ神輿」。300年以上の歴史があると言われている行事で、船に見立てた3基の神輿が沿道の民家の軒に触れんばかりの勢いで豪快に揺られながら練り歩くのだそうだ。

兼山神社
兼山神社
王子宮の滝
王子宮の滝

王子宮から5分ほど歩くと、小さな漁港が見えてきた。曇りがちでも深い緑色を湛えていて、ちょっと甲浦を思い出す。今は「津呂港」とは呼ばないのだろうか、説明板には「室戸岬港(津呂港)」と書かれていた。家が建っている場所に比べて海水面がずいぶんと低く、船着場まで下りていく階段が大変そうだが、この地形にも室戸岬の地質活動が関係している。地震で陸地が隆起しては港が浅くなってしまうということが繰り返され、そのたびに底の岩を掘り下げてその機能を維持してきたのだ。人々が地震と折り合いをつけながら暮らしてきた歴史がこの港の姿に刻まれている。

説明板の隣には大きな石碑がふたつ建っていた。ひとつは知っている名前が書かれている。土佐日記の紀貫之だ。934年、4年間の国司の任期を終えた貫之は京に帰るべく土佐を出発した。通常なら海路で25日程度だったそうだが、貫之はどうも天候に恵まれなかったようで、55日もかかったそうだ。ただでさえ難所とされている室戸岬ではなかなか前に進むことができず、「室戸の津」で10日間も足止めされたのだという。「室戸の津」が具体的にどこなのかというのははっきりしておらず、津呂、室津、室戸岬でそれぞれに貫之の停泊港であったと主張している模様。

室戸岬港(津呂港)
室戸岬港(津呂港)
紀貫之の碑と野中兼山の碑が並ぶ
紀貫之が波待ちをしたとか

もうひとつの石碑には「野中兼山」の名が見える。知らない人だ、いや、さっき「兼山神社」というのがあったような?改めて説明板を読むと、この津呂港を現在の形に整備した人物らしい。港の入口を土嚢で締め切って内側の海水を汲み干したあと、ノミと槌で岩を砕いて開削するという「掘り込み工事」という工法で造られたそうで、延べ36万5千人を動員し、僅か2ヶ月で完成したという(1661年3月)。当時土佐藩では参勤交代の際の避難港の確保が課題となっており、藩をあげて取り組んだようだ。海が荒れやすいうえに岩礁地帯ばかりの室戸岬は紀貫之の時代から700年を経てなお航海の難所であり、津呂港の完成により多くの海難が防がれたという。

野中兼山は江戸時代初期の人で(1615〜1664)、土佐藩の藩政改革を語るうえではずせない人物である。第2代藩主・山内忠義のもと弱冠21歳という若さで土佐藩の家老となった彼は、港湾整備のほか、新田開発のための堰や用水路の建設、産業振興、林業振興などあらゆる方面で事業を手がけた。彼の時代に増加した灌漑面積は約3,800haにのぼり、石高も24万石から49万石に倍増。「貧乏藩」だった土佐の財政基盤を劇的に向上させたという。しかしその手法は強引で厳しかったため藩内で反発を招き、藩主の代替わりとともに罷免され失脚。そのわずか3ヶ月後に48歳で病死してしまったのだそうだ。

港の反対側の端まで進むと、今度は「昭和九年かいしょう襲来地點」と刻まれた碑が建っていた。昭和9年にこの地を襲った災害、それは室戸台風である。上陸時の中心気圧912hPaは観測史上最低、未だにこれを更新するものはないという猛烈な台風で、9月21日未明に室戸岬の西岸(奈半利町〜羽根村付近)に上陸。一帯には12m近い高潮が押し寄せ、甚大な被害を出したという。この場所に碑があるということは、掘り下げられた港の岸壁を駆け上がって民家のところまで波が押し寄せてきたということか。地震に耐え、台風に耐えてきた室戸の町。町並み全体が質実剛健な雰囲気を纏っているのは、厳しい自然と対峙してきた人々の苦労が染み込んでいるからなのだろう。

漆喰に水切り瓦の家
水切り瓦の家
「昭和九年海嘯襲来地點」の碑
「昭和九年海嘯襲来地點」の碑

少し前に降り出した雨が強まってきたので、電気屋さんの軒先で雨宿り。できるだけ雨具を出したくないので、なんとか小やみにならないかと様子を伺う。LINEの通知がきていたので見てみると、ユキちゃんからだった。この先にある「吉良川の町並み」のリンクが送られてきて、「時間があればぜひ見てみて」とお勧めしてくれた。今ちょうどそのあたりを歩いているのだろうか。半日差くらいだな。

津呂港から歩くこと30分弱、津照寺の案内看板が見えてきた。お宿を出てまだ1時間半である。改めて、「近!早!」と謎の感動を覚える。この前のクール(薬王寺〜最御崎寺)は道草込みとはいえ33時間もかかっているのだから、えらい違いだ。看板の足元にはヤマザキストアがあった。ロッジおざきの女将さんが「津照寺の手前のコンビニ」と言っていたのはこれかな?ちなみにこのあたりは名物「室戸キンメ丼」のお店が何軒かあるのだが、残念ながらどこもまだ営業前なのである。キンメダイは深海に生息する魚だが、沖合が急に深くなる室戸では沿岸近くで水揚げすることができ、新鮮な刺身が食べられるのだそうだ。

町なかにも「昭和九年海嘯襲来地點」の碑があった
ここにも「海嘯襲来地点の碑」が
津照寺の案内看板
早くも津照寺への案内看板が現れた

キンメ丼食べたかったなあ、と思いながら歩いていると、また港が見えてきた。さっきの港と雰囲気が似ていて、うっかりループしたのかと錯覚してしまう。それもそのはずで、この「室津港」も津呂港に続いて野中兼山が開削させたという兄弟みたいな関係だ。地震で隆起するたびに掘り下げてきたというのも同じ。ふたつの港は3kmほどしか離れていないのだが、津呂港は東向き、室津港は西向きに港の出入口が造られており、風向きや波に応じて避難する港を選択できるようになっているのだという。

津呂港は2ヶ月で完成したが、続いて取りかかった室津港の工事は難航した。本格的に着工する前に兼山は罷免されてしまったので普請奉行だった一木権兵衛という人が遺志を引き継いだのだが、港の入口にあった「お釜石」と呼ばれる大岩が人力を全く寄せ付けず、3年近くもかかったのだという。反兼山派の風当たりも強かったのだろうか、焦った権兵衛が「この港の工事が成功したらわたつみに命を捧げることを誓う」と竣工祈願をしたところ、お釜石は血飛沫とともに砕け散り、ついに港が完成した(1679年)。権兵衛はその翌日に港のほとりで切腹し、誓い通り人柱となったという。

室津港(津呂港と似ている)
室津港(既視感を感じる)
漁船が帰っていった
漁船が帰っていった

権兵衛の切腹には兼山排除への抗議の意もあったのではないかと言われているそうだ。兼山は確かに重税や苦役により庶民を苦しめたが、一方で農地開発により作物の生産量は上がり、海難事故を回避するための港は捕鯨や漁業の基地としても栄え、室戸の町ひいては土佐藩の発展に大いに寄与したのも事実だ。野中家は兼山の死後男系が断絶するまで一族もろとも幽閉されるという非常に過酷な扱いを受けたが、それでも彼を祀る神社が残っているのは、彼の功績に少なからず感謝を抱く者もいたためだろう。先人たちの苦労が詰まったこの港を上からしばらく眺めていると、小さな漁船がすーいと入ってきて、奥のほうの定位置と思われる場所にスルリと収まった。
 

【第25番札所・津照寺(しんしょうじ)】本尊:地蔵菩薩(楫取地蔵)

津照寺への参道は、室津港の湾口のちょうど正面あたりから山側に伸びている。参道の脇には「遍路の駅 夫婦善哉」という商店があり、野根まんじゅうなどの地場産品のほかお弁当も売っているようで、ここでも食料は調達できそうだ。外の旗には「金目丼」の文字があったが、ここも食堂は11時からとのこと。まだそんなにお腹も空いていなかったので中を覗かずに通り過ぎてしまったのだが、結果からいうとこの日はこのあと「見逃し」「定休日」「臨時休業」の連続に泣かされたので、寄っておけばよかったなあ。

9:15、津照寺の山門に到着。朱塗りの柱に瓦屋根のシンプルな門だ。正面にものすごい傾斜の石階段が聳えていて、思わず「まじか…」と絶望の声が漏れる。ちょっと手前から朱い門がやたら高いところにあるのは見えてはいたのだが、「まさかあれが津照寺か?いや、そうではないと誰か言ってくれ…」とひとり問答しながら歩いてきたのだった。淡い期待は秒速で裏切られた。125段の階段を登った先に、津照寺の本堂はある。

遍路の駅・夫婦善哉
遍路の駅・夫婦善哉。左奥が津照寺
第25番札所・津照寺山門
第25番札所・津照寺 山門。背後に果てしない階段が…

津照寺は807年の開基。修行中の空海がこの山の形が地蔵菩薩の持つ「宝珠」に似ていることから霊地だと感じ、海の安全と大漁を祈願して自ら地蔵菩薩を刻んで本尊としたそうだ。古来より漁師たちの信仰を集め、地元では「でら」と呼ばれて親しまれている。初めは長宗我部氏(!)、のち山内氏の庇護を受け藩営の寺院として隆盛を極めたが、明治の廃仏毀釈により寺領は没収、廃寺とされた。その後は荒れるに任され、明治16年にようやく復興を許された時に残っていたのは地蔵堂(本堂)と庫裡だけだったという。そのため建物はどれも新しく、本堂は1975年(昭和50年)、大師堂は1963年(昭和38年)に再建されたものだ。

山門を入ってすぐ右手に見える大師堂と納経所を横目に見ながら、まずは本堂への階段を登る。これがまた絶妙に登りにくい階段で、段差が妙に狭いうえそれぞれ微妙に高さが異なり(”妙”ばっかり笑)、面の部分もなんとなく膨らんでいてグリップが効きにくいのだ。ザックの重さのせいでそもそも重心が後ろに持っていかれやすいので、真ん中の手すりを盛大に頼ることにする。山がちな寺院の場合「裏に車の道があって本堂のギリギリ近くまで上がれます」というパターンも多いのだが、ここはそういったものもないようで、車お遍路さんたちもがんばって登っていた。

山門を入ったところ
山門を入ったところ。右手は大師堂、本堂は階段の上にある
朱い楼門は仁王門
仁王門だった

遠くからもひときわ目を引いていた朱い楼門は仁王門のようだった。両脇を護るのはちょっと骨が浮いた感じのひょろりとした仁王さんたちで、もっとお肉つけて!と言いたくなる。雨を避けつつ少し休憩、海の方を振り返れば文句なしの絶景だ。わぁー、と歓声をあげると同時に、下りの階段の傾斜をうっかり見てしまってぞっとする。石段はつやつやに濡れていて、ひと足踏み外したら一気に下まで連れていかれそうだ。見るからに危なそうすぎて、逆に事故がないのかもしれない…。

室津港を見下ろす
景色は最高
階段の傾斜がやばい
ていうか、この傾斜やばない?
本堂前のお手水
本堂前のお手水。「やましたさん」ご健在

楼門をくぐって更に20段ほど階段を登ると本堂が見えてきた。初めてもろにコンクリート製のお堂を見たので、「あ、こういう感じなのか」とちょっとだけ拍子抜けしてしまう。強い海風を避けるためだろうか、手前はガラス戸で仕切られた風防室のようになっていて、香炉や蝋燭立てもその中にあった。外壁こそ現代風味だったものの、ご本尊の安置されている内陣はいい雰囲気。意図して灯りを抑えているのか祭壇はかなり薄暗く、壁一面に小さなお地蔵さんが奉納されているのがぼんやりと浮かび上がって見えて、まるで洞窟の中のような神秘的な空間だった。

ご本尊の延命地蔵菩薩は秘仏のため、残念ながら姿を見ることはできない。「楫取地蔵」と呼ばれる由来には、初代藩主・山内一豊が室戸沖で暴風雨に見舞われた時、僧侶の姿をして現れて舵を取り港に導いてくれたという逸話や、本堂から火が出た際自らお堂を出て火事を知らせ、村人が火難を逃れることができたなどの言い伝えがあり、「火事取り」の意味もあるそうだ。衆生救済の役を担う菩薩さまらしいエピソードである。

津照寺本堂
津照寺 本堂
折り鶴がたくさん奉納されていた
折り鶴がたくさん
献灯
蝋燭の仄かな灯り、良き

本堂は楼門よりもうひとつ高い場所にあるので、更なる絶景が望める。しばしの休憩ののち、さて大師堂に戻るか、とザックを背負っていると、ひとりの青年がぜいはぁと荒い息を上げながら階段を登ってきた。大学生くらいだろうか。同じ大荷物の歩き遍路ルックなので、「おお、お仲間だあ」と親近感が湧く。挨拶をし、そして二言目にふたりして同じことを口にした。「荷物、下に置いてきたらよかったですよね…」。

そう、大師堂も納経所も階段の下にあるので、登ってきたあの石段をそのまま下りることになるのだ。なんでザックを背負ったまま登って自らに更なる苦行を強いてしまったのだろう。実を言えば途中でうっすら気づいてはいたのだが、階段に置いてくるわけにもいかず、かといって戻るのも今更だし、でここまできてしまったのである。(一応自己弁護すると、たまに通り抜けのパターンがあるので、特に高低差がある時はあまり荷物から離れて行動したくないという心理があるにはある)

なにはともあれ、登ってきた階段を今度は下りていく。下りのほうが足を滑らせそうなのに、また雨が強まってきたのでなおさら慎重にいかねば。そうして朱い楼門まで下りてきた時、やらかしたことに気づく。楼門の山側の足元には階段があって上に上がれるようになっており、そこに鐘が吊るされていたのだ。これ、鐘楼門だったのか…!行きにここでちょっと休んだが、登ることに一生懸命になりすぎて鐘の存在に気付くことができなかった。無念…。

朱い門は鐘楼門でもあった
これ、鐘楼門だった…!
鐘が吊られている
ごーんん…(脳内)
お手水の龍
大師堂前のお手水にいた龍。眉毛?がかわいい

鐘を撞くのはこれからお参りさせていただきます、というご本尊への挨拶であり、お参り後に鐘を撞く「がね」は「出金(お金を失う)」や出棺の鐘を連想させ縁起がよくないとされているため、その姿を恨めしく仰ぎながらそのまま階段を下りる。残り50段ほどのところで外国男子ふたり連れとすれ違ったので、同じ轍を踏まないようにと、あそこに鐘があるよ!と適当ジェスチャーと「bell」でお知らせ。無事通じていたようで、しばらくすると背後からゴーン、と鐘の音が聞こえてきた。私の分も撞いてもらったことにしよう。

大師堂のところまで下りてきて改めて辺りを見てみると、ベンチがいくつもあって選り取りみどり状態だった。行きになぜこれが見えなかったのか本当に不思議である。雨が避けられるところにザックを下ろし、身軽になって大師堂にお参り。納経後もたもたと荷物を詰めていたら、先ほどの青年が先に出発していった。
 

【第26番札所・金剛頂寺(こんごうちょうじ)】本尊:薬師如来

10:05、津照寺を出発した。次の金剛頂寺までは3.8km、1時間くらいの道のりだ。朝イチは次の札所の近さに妙な戸惑いを覚えたが、そういえばこんな感じだったな、と調子を取り戻す。

津照寺の左隣にある神社は「一木神社」といい、土佐藩の港湾整備のもうひとりの功労者である一木権兵衛が祀られている。権兵衛は一領具足の家の出だったが、生まれ故郷のぬのの用水路建設で手腕を発揮したことが兼山の目に留まり、郷士に取り立てられた(兼山の能力さえあれば身分を問わず登用する姿勢も武士の反感を生んだ)。その後普請奉行となり、港や河川整備の工事を指揮。兼山亡き後もその志を継ぎ、室津港にその身を捧げた彼の死を悼んで、地元の人々が神社を建立したのだという。

一木神社の鳥居
一木神社の鳥居と「お釜石」(右)
津照寺から一木神社への経路
津照寺の参道から一木神社に行ける
一木神社の石段
こっちもエライ階段だった…

一木神社へはこの鳥居の奥から階段が続いているのだが、実は津照寺の境内からもその階段に繋がる道がある。先ほど本堂への石段を登っている時、「なんかこっちにも道がある」と思って一度左に進み、一木神社の方へ先にお詣りしていたのだ。こちらもなかなかの階段だった。一木神社と津照寺、2種類の石階段をザックを背負ったまま行き来するという修行を密かに己に課していたのである。膝がやられそうだ。

境内には特に説明看板などはなくひっそりとした佇まいだったが、周囲は綺麗に履き清められていて、今でも大事にされている様子が伺えた。津照寺よりも西側に張り出しており、遮る木立もなかったので、金剛頂寺のあるぎょうとう岬はこちらからのほうがよく見えた。

一木神社
一木神社
一木神社から見た行当岬
神社境内からの景色。行当岬を望む(どこかに金剛頂寺があるはず)

神社前から細い路地を通って表通りに下りると、その通りをちょうどこちらに向かって歩いてきた彼と再び出くわすことになった。遍路道に忠実に従った結果、どうやらこちらが少しショートカットしたようだ。金剛頂寺に向かう街道を、お遍路話をしながら一緒に歩く。想像した通り彼は大学生(4回生)で、就職が決まり、単位も取れたので何かしようと思ってお遍路にきたとのことだった。渋い。吉良川の伝統的建造物がすごくいいみたい、とユキちゃん情報を提供すると、それ行くかどうか悩んでるんっスよねえ、という。保存地区を通り抜けるだけでも十分楽しめそうな気はするが、もしかしたら今日のうちに27番のこうのみねじまで行く気なのかもしれない。

いつしか話題はスペインの巡礼のことになった。おとといの雨が凄かった、というところから、「実は雨具持っていないんですけど、あったほうがいいスか?」と聞かれたのが始まりだった気がする。雨具は命に関わるからマストやで!と力説する中で、スペインを歩いた時は湿度がなさすぎて8月でも明け方8℃位まで冷え込むことがあり、まさか防寒のことを考えていなかったので雨具から何から全部着込んで切り抜けた、という例を出したのだった。そこで「えっ、スペイン歩いたんですか!俺いつか絶対行きたいと思ってるんです!」と彼の声のトーンが数段跳ね上がり、がっちり食いついてきた。そこからは、こんなのだったあんなんだったと聞かれるがままに経験を話していく。しめしめ、ひとりサンティアゴ巡礼の心の炎に火を灯したぞ(笑)。

金剛頂寺への案内看板
金剛頂寺への案内看板
県のへんろプレート
このへんろ看板、久しぶりに見た

10:40、金剛頂寺への右折を示す分岐が出てきた。途中で車の遍路道とも分かれ、住宅地の中の細い路地を上がっていく。県のへんろプレートもなんだか久しぶりのような気がして、懐かしいワクワク感だ。住宅地の奥から山道パートへ。登りになると自分はすぐ亀になり、歩調が離れてきたので彼に先に行ってもらう。サンティアゴも考えているなら、ぜひ良き雨具を!と最後に声をかけると、高知でモンベル行きます!と元気な返事が返ってきた。そしてその後ろ姿はみるみる小さくなっていく。早い。笑

金剛頂寺への山道は、徳島での峠道を思い出させる楽しい道だった。お寺の標高は165m、それを700m弱で登る。なんだか聞いたことのあるくだりだ。昨日お参りした最御崎寺もそうではなかっただろうか?ふたつの札所は、どうやら同じ時代の海岸段丘の上に建っているようだ。少し違うのは、こちらは石階段ではなくて、少し急めの傾斜を登っていくというところだ。お地蔵さまがいたり、たまに壁かと思わせる岩登りが出てきたり、立派な石垣やお手本のような切り通しがあったり、まるで超ダイジェスト版の焼山寺道みたい。山頂に近づくほど高く連なる石垣は何の跡なんだろう?かつてはものすごく大きなお寺だったそうなので、もしかしたら昔はこのあたりにも堂宇があったのかもしれない。

青年はすぐ見えなくなった
あっちゅー間に消えていった青年
崖…
え、なんか崖
石垣がたくさん
立派な石垣がたくさんあった

傾斜に苦労はしたが山道区間は長くはなく、10分もすると「金剛頂寺」と大きく書かれた看板が見えてきて車道に出た。うーん、奥にまた階段が見えているなあ。右手は駐車場になっていて、そこにあった自販機がやたらお値打ち価格だったので、階段を登る前にカフェオレを飲んでひと休みした。23番薬王寺を思い出させる厄除け坂は、134段。さっきの津照寺の階段と比べると角度も緩く、なにより面が平らなのがありがたい。老夫婦が一生懸命支えあいながら登っていく様子にちょっとほっこりした。

金剛頂寺の案内看板
山道抜けた、と思ったらまた階段
厄除け坂を老夫婦が登っていく
なかよし

11:05、金剛頂寺の山門に到着。まず、境内が広〜い!正面にある立派な本堂は1982年(昭和57年)再建の鉄筋コンクリート造だそうだが、一見してそれとは分からないくらい景観に馴染んでいた。津照寺もこれくらいがんばってくれれば…(失礼)。この時は観光の人も含め4〜5組の参拝があったが、間口が広々としているので、それぞれ思い思いの場所に立ち位置をとってお参りをされていた。今度こそ忘れずに先に鐘を撞いて(とても分かりやすいところにあった)、自分も本堂に向かう。

さて、と蝋燭を供えようとしたら、あれ、蝋燭立てがない。よく見ると、本堂の手前に屋根付きの大きな香炉と蝋燭立てがあった。いったん階段を下りて、やり直し。あまりにも造りが立派すぎて逆に見落とすという不思議なことになってしまった。金剛頂寺は正式名を「龍頭山 光明院 金剛頂寺」といい、その名の通り香炉の左右にも龍があしらわれているのだが、少しアニメちっくな感じがかわいい。にっぽん昔話に出てくるあの龍に似ている気がする。

第26番札所・金剛頂寺山門
第26番札所・金剛頂寺 山門(仁王門)
鐘撞堂
分かりやすい鐘撞堂

金剛頂寺は平城天皇の勅願により807年に創建されたもので、空海最初の勅願寺だとされている。一時は今の室戸市の全域に及ぶほどの寺領を誇っていたといい、現在でも境内の面積は3万3000㎡もあるというから驚きだ。明治の火災で大師堂と護摩堂以外の伽藍を焼失したため、その他の堂宇はどれも大正以降に再建されたものである。津照寺から金剛頂寺が見えたように、金剛頂寺から室戸岬の方角を望めば津照寺(ひいては最御崎寺)が見えるそうなのだが、山門を入ってすぐのあたりからちょっと奥まった展望台に行かなければならなかったようで、気づかずに通り過ぎてしまった。

室戸市にある最御崎寺・津照寺・金剛頂寺は総して「室戸三山」と呼ばれ、それぞれ「ひがしでら」「でら」「西にしでら」の通称で親しまれていて、納経の寺名もそれで記されている。3つとも空海が遣唐使から戻った翌年に創建されたことになり、ちょっと頑張りすぎではないかという気もするが、帰国した空海はまずは悟りの地・室戸での活動に力を入れたということなのだろう。

金剛頂寺本堂
立派な本堂。香炉専用の建屋が別にある
「西寺」の納経
「西寺」と記された寺名

大師堂は本堂から見て右前方にあるのだが、妙に斜めというか変な方向を向いている。これは金剛頂寺に伝わる「天狗問答」の逸話から来たものだ。19歳の時ここで修行をしていた空海を魔性の類が邪魔してきたので、空海は天狗どもを問答により説き伏せて足摺岬の方へ追い払った。そして「自分の姿がここにある限りは室戸に来て悪さをしないように」と楠の大木に自分の御影を刻み、大師堂を西(足摺岬)に向けて建てたのだそうだ。大師堂の裏手にその様子を彫ったレリーフがあったらしいのだが、見落とした。

大師堂の周辺にはほかにも「一粒万倍の壺(空海がこれで米を炊くと万倍に増えた)」や「ガン封じの椿」などご利益のありそうなものがたくさん。宝物殿(入るには予約がいる)には重要文化財が多数収蔵されているそうで、中でも「金銅たびだん」は空海が各地を修行して回ったときに実際に使っていた大変貴重なものだという。旅壇具とは箱壇に納められた携帯用の密教法具一式だそうだが、僧侶が亡くなると通常は一緒に埋葬されてしまうため、古い時代のものはこれしか残存がないのだそうだ。それがあの空海のものだとなると貴重どころの騒ぎではない。

香炉の龍
香炉の縁にくっついていた龍。かわいい
一粒万倍の釜
一粒万倍の釜
がん封じの椿
がん封じの椿

文化財のほかに天然記念物もある。広々とした境内を囲んでいるのは椎の原生林で、この根っこには珍しいヤッコソウという植物が生えるのだそうだ。葉緑素を持たない寄生植物で、1906年(明治39年)に足摺岬で発見され、2023年の朝ドラのモデルにもなった牧野富太郎さんが新種として命名した。花の季節は11月とのことで残念ながら今は看板の写真で見るしかないが、最御崎寺のヤッコソウ自生地とともに天然記念物に指定されている。

納経を終えて荷物のベンチに戻ってくると、青年がちょうど出発しようとしているところだった。もうとっくに行ってしまったかと思っていたので驚いたが、最後に挨拶ができてよかった。元気に手を振って歩き出す後ろ姿を、こちらも手を振って見送る。その後彼はサンティアゴ巡礼に行っただろうか。彼ならきっと行くだろうな。次はスペインの空の下で会おう。
 

ぜひ訪れてほしい、吉良川の伝統的町並み

11:50、金剛頂寺を出発した。次の札所である27番神峯寺までは27.5kmもあるため、今日のお参りはここで打ち止め。ここから10kmほど距離を進めて、羽根にあるお宿に泊まる予定だ。お昼も取りつつまったり歩いて、4時間くらいかな。納経所の奥から「本坊」と矢印が出ている方向へと階段を下っていくと、信徒会館があった。ここ金剛頂寺にもかつては宿坊があったのだが、長らく休業が続き、2024年(令和6年)12月ごろに正式に閉館となったそうだ。半年前かあ。コロナ以降、宿坊の閉鎖が加速していて悲しい。

西寺檀信徒会館(旧宿坊)
西寺檀信徒会館(旧宿坊)
ミニチュア三十六童子
三十六童子

ミニチュア版「三十六童子」の脇を過ぎると公道に出た。このあたりの道はアスファルトにはなっているが、左右を古めかしい石垣に挟まれ、遍路墓のようなものもあったりして、古来からの遍路道の雰囲気が感じられる。行く手に爽やかな新緑に包まれた緑のトンネルが現れた。ほんの50mほどだが、とてもきれいに刈り込まれた並木道だ。木の種類が分からないが、沖縄で見た「備瀬のフクギ並木」の雰囲気にそっくり。うっとり。

太字ゴシックの「不動岩」看板
太字ゴシックの「不動岩」が主張している
ふたつ並ぶ遍路墓
親子の遍路墓?
フクギ並木を思わせる緑のトンネル
すばらしい緑のトンネル!

金剛頂寺を出て15分ほどで、車道から離れて畦道に入る分岐が出てきた。この分岐を見逃してしまうと全然違う方向へ連れ去られてしまうからなのか、脇に立っているカーブミラーにもへんろシールがてんこ盛りに貼られていて、精一杯「右折」を知らせている。ちょうど軽トラのおっちゃんが通りかかって、「そっちそっち〜」と指差しつつ声をかけてくれた。人ひとり分の獣道みたいな畦道を通り抜け、次第に下りの山に入っていく。

金剛頂寺を下りる遍路道では、見慣れたへんろ札に加えて太字のゴシックで「不動岩」と書かれた看板が目を引く。神峯寺に行くには行当岬の先端にあるこの不動岩を経由していくルートと、そちらへは行かず直接岬の反対側の付け根に下りるルートがあり(Å←こんな感じ。Λが不動岩経由)、距離としては+1.5kmくらい。とともに空海の室戸での修行場であったと伝えられており、付近にはかつて女性の遥拝所であった「不動堂(女人堂)」があるほか、「空海遍路文化会館」という資料館も新しくできたそうで面白そうなスポットだったが、あれこれ見学していたらここだけで1時間以上かかってしまいそう。時間の都合で今回は見送ることになった。

畦道へ入る分岐
畦道へ。ホース格納庫の安否が心配…
しばらくは「不動岩」の案内に従う
しばらくは「不動岩」の案内に従う

不動岩は高さ40mにもなる大岩で、荒波打ちつける断崖絶壁にあり、国道が真ん前にできて海から遠くなってしまった御厨人窟よりも行場としての雰囲気がより色濃く残されているそうだ。おそらく「修行」の一環なのだと思われるが、古来より悟りや霊力を得るための行として断崖や巨岩にしがみつきながらその周囲を何回も廻るというものがあったそうで、空海も不動岩でこの修行をしたらしい。崖下の岩礁には空海が太平洋に向かって坐禅を組んだと言われる「御座石」などもあり、知る人ぞ知るお遍路スポットだ。不動岩に穿たれた洞窟からも「空と海」のさまが見られ(こちらは西の海になる)、室戸の地で「くうぞうもんほう」を実践するなか、空海が実際に悟りを開いた場所はこちらではないかという説もあるそうだ。

「不動堂(女人堂)」には波切不動尊が祀られている。金剛頂寺の飛び地境内で、開創から明治初期に至るまで女人禁制の修行道場であったため、女性たちがお参りに来た時はここで遥拝・納経していたそうだ。修行中の空海は不動堂から金剛頂寺まで毎日行き来した(行道)とされており、「行当岬」の名はここからきたのではないかと言われている。縁起などを知ると、「室戸三山」のなかでも特に「東寺」と「西寺」は似通ったところが多いような気がする。どちらも勅願寺で女人禁制、女性用の遥拝所があり、足摺岬の金剛福寺と対に語られる。同じ高さの海岸段丘に建っていて地理的条件も似ているので、秋にはヤッコソウの行進が見られるなんていうところまでそっくりだ。

不動岩方面と神峯寺直通の分岐
不動岩方面との分岐はオレンジの倉庫が目印
分岐詳細
ぼーっとしてたらそのまままっすぐ行ってしまいそう

遍路道はしばらく「不動岩方面=神峯寺方面」という雰囲気で進んでいくが、オレンジ色の倉庫のところで「不動岩経由」と「神峯寺直通」に分かれるので注意である。右(四国のみち)へ行くと行当岬をショートカットして「道の駅キラメッセ室戸」の近くに下りることができるのだが、ちょっと見落としやすそうな雰囲気だ。

まず「四国のみち」の看板は「一番やる気のないパターン(支柱だけ)」で、行き先表示がない。へんろシールも奥まった電柱のところに貼られており、しかも木立で少し隠れているので、こちらを向いている「不動岩」の看板のほうがずっと目に入りやすいのだ(地元の人の「ぜひ不動岩を訪れてほしい」という気持ちが込められているのかもしれない)。これまで「不動岩」が全面に押し出された案内に従って歩いてきているだけに、そのまま吸い寄せられてそっちに行ってしまう人もいるかもしれない。自分もうっかり直進しそうになったが、「Henro Helper」で分岐を確認して事無きを得た。

「四国のみち」方面を入ったところ
「四国のみち」もへんろシールも忍びすぎである
へんろ札
味のあるへんろ札
道祖神
道祖神

「四国のみち」方面に進んでしばらくはなだらかな山道が続き、最後はジグザグとしたつづら折りの急傾斜を下る。おそらく海岸段丘の崖っぽくなっている部分にあたるのだろう、道が崩れないように土手は石垣で補強されていて、一部は丁寧に石畳が敷き詰めてある。石畳の表面は苔と落ち葉で覆われており、先日の雨もまだ乾ききっていない感じで、いかにも滑りそう。尻もち回避のため、脇の土の部分を選んで下りた。後ろから足音が聞こえてきたので振り返ると、折り重なった石垣の上から外国の青年が下りてきて、爽やかに挨拶をして追い抜いていく。

傾斜を下りきると竹林が出てきて、一気に人里の雰囲気になる。用水路の横を通って「黒耳大師堂」の裏に出たあたりで、またひとり金髪男子が追い抜いていった。彼らは確か金剛頂寺に3人組で到着してきたように見えたけど、たまたま行き合った感じなのだろうか。そのあとは特に待ち合わせるでもなく自分のタイミングで出発するあたり、個の文化の根付く西洋的な距離感だなあと感じる。蛇足だが、3人とも短パンに生足だった。今のところマイ統計は100%の確率を維持している。

滑りそうな石畳
滑るって(汗)
用水路の横を通って国道へ
用水路の横を通って国道へ下りる

12:35、海岸沿いの国道55号線に復帰、「道の駅キラメッセ室戸」に到着した。お弁当を探して「楽市」と書かれた産直市場に入ってみたが、どうやらここに置いてあるのは野菜や生魚などの食材がメインのようだ。隣のジェラート&お弁当屋さんには「人手不足のため、当面の間毎週木曜日がお休みとなります」との張り紙が。木曜って、今日やないかい…!仕方なく「楽市」に戻って柚子のおやつとコーヒーを買い、お昼代わりに食べることにした。駐車場の向こうの堤防に腰掛けて、浜辺を見ながらのショートブレイク。ここから振り返って見えるのは、もう室戸岬ではない。金剛頂寺のある行当岬だ。その先端に、うっすらと不動岩の姿が見えた。いつかは行ってみたいな。

道の駅には食事処があるものと地場産品売り場だけのものとがあり、ここは後者なのかと思っていたのだが、実はレストランがあったらしい。南からレストラン→鯨の資料館→産直市場の順に施設が並んでおり、山から下りてくる道は鯨館のあたりに出てくるので、そこからの進行方向ばかり見ていて手前にレストランがあることに気付けなかったのだ。その名も「レストラン食遊 いさごう」、室戸伝統の鯨料理が食べられたらしいのに、残念な見過ごしをしてしまった(ちなみにこの道の駅、月曜日は全館休館となる模様。ご注意あれ)。

道の駅キラメッセ室戸(鯨の資料館)
道の駅キラメッセ室戸(鯨の資料館)
不動岩が遠くに見えた
不動岩を遠くに眺めながら小休憩

お昼休憩を終えたら、いつもの予約タイムだ。5/6(火祝)は四万十川の手前あたり、一番候補の「ペンションひらの」さんに電話をしてみたが、その日は満室とのことだった。あちゃあ…。近くに「つきしろ」さんというお宿があるのでそちらはどうだろうか、と紹介してくれたのであとで場所を確認してみよう。もしくはもともとの第二候補で決めてしまうかだ。お宿作戦は夜に持ち越しとなった。

13:10、道の駅を出発。水田と琵琶畑が印象的な街道を歩いていると、向かいからお遍路さんがやってきた。長ズボンだったので予想通り日本人のおじさん。2回目の逆打ちだそうだが、もう迷いに迷って大変とのことだった。矢印が全部向こうを向いてるもんなあ…。お互いに直近の札所の道がどんなだったかを情報交換。明日行く予定の神峯寺は高知唯一のへんろ転がしで、その恐ろしい傾斜っぷりから「真っ縦」と呼ばれている。一体どんな崖が待ち受けているのかと怯えていたのだが、大丈夫、みんななんだかんだで登っていますよ、と励ましてもらった。雨で崩れたりはないようだったのでひと安心。

Googleマップで調べたところ道の駅から30分ほど歩いたところに「SADAMARU BURGER」というハンバーガー屋さんがあり、そこでお昼が食べられないかと期待していたのだが、どうも様子がおかしい。下ろされたシャッターに小さな張り紙、嫌な予感。近づいてみると案の定…「本日と明日、臨時休業のお知らせ」。わお!!今日はもしかしたらお昼なしのままお宿かも。歩きの時はそこまでがっつり昼を食べない方ではあるが、さすがに携帯食とおやつだけではひもじい。

逆打ちさん
逆打ちさん
バーガー屋さんは臨時休業
臨時休業!Wow!

「SADAMARU BURGER」から15分、絶賛架け替え工事中の「東ノ川橋」を渡ると、町の雰囲気が一気に趣のあるものに変わった。低めの二階建てに瓦屋根の建物が軒を連ねており、時代劇のセットみたいだ。時刻は14:00ちょうど、どうやらがわの「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」に入ったようだ。

「吉良川の町並み」は1997年(平成9年)10月、高知県で初めて重伝建に選定された。説明看板によるとこのあたりでは古くから林業が盛んだったが、明治期に木炭の需要が高まると製炭が行われるようになった。以来、良質な備長炭を京阪神に積み出す廻船業で大いに栄えたという。土佐備長炭に使われるのは、室戸に多く自生するウバメガシ。昨日泊まったお宿の「うまめの木」とは、ウバメガシの地元での呼び方だそうだ。

看板を過ぎてメイン通りに入ると、見事な漆喰造りの建物が何軒も出てきた。吉良川は重伝建のなかでも建物の残存数が多く、明治期から昭和初期にかけて建てられた伝統的家屋が130軒以上残っているそうで、東西1km・南北300mに亘ってまるで100年前にタイムスリップしたかのような景観が続く。よくこれだけまとまって保存してきたものだ。漆喰造りの建物も素敵だが木造のものも風情があり、素晴らしすぎて遍路道を離れて町の中をぐるぐると練り歩いた。ユキちゃんもきっとこれに感動して、お勧めを送ってくれたんだ。

土佐漆喰と水切り瓦の屋敷
土佐漆喰と水切り瓦
木造家屋も趣がある
木造家屋も趣がある

吉良川町の伝統的家屋には、かつて「台風銀座」と呼ばれた室戸の地で人々が台風への対策をしてきた知恵や工夫が詰め込まれている。まず目に入るのは、真っ白な「土佐漆喰」の壁だ。雨水が家の中に浸透するのを防ぎ、塩害や火災にも強い。さらに何段もの「水切り瓦」を設け、雨水を素早く地面に流すことで漆喰そのものの劣化をも予防している。高台の地区へ行くと「いしぐろ」と呼ばれる石垣がたくさんあり、これも強風から家を守るためのものだ。ほかにも軒を低くしてお互いに高さを揃えたり、横殴りの雨が侵入しないように瓦の継ぎ目を風下に向けたりと随所に暴風雨に耐えるための工夫が凝らされており、それがこの町の景観を形作っている。

軒の高さを揃える話で、津呂の王子宮で神主さんが教えてくれた話を思い出した。「室戸の山はどれもツルっと丸いのはなんでと思う?台風の風が強すぎて、ちょろっと飛び出た枝葉はすぐにもぎ取られてしまうんよ。だからどの木の葉っぱも同じくらいに刈り揃えられてるの」。台風という猛威のもとに、山も町並みも似たような形に収まるのが面白い。人々が自然とうまく向き合いながら暮らしてきたことで生まれた「吉良川の町並み」は、もちろん室戸ジオパークの一部。自然の営みと文化や産業の繋がりを知ることができるジオサイトはとても珍しいのだそうだ。

軒の高さが揃えられた民家
軒の高さも揃えるのも台風対策だという
崩れてしまった石垣
朽ちてなお芸術

ひときわ立派な建物が連なっている通りがあったのでその角を曲がってみると、奥のほうに立派な鳥居が見えた。ここは「御田八幡宮」という神社の参道のようで、鳥居の前から海岸まで一直線に漆喰の屋敷が連なる様子は圧巻だ。その一角が「まちなみ館」という資料館になっており、入場自由だったので中を見学。特に案内の人などはいなかったが、その分落ち着いて中の様子や説明書きを見ることができた。隣にあった「おまつり館」も同様で、ゆっくり展示物を見て回る。

残念ながらここでも食べ物に縁のない事態が発生した。「お休み処 べっぴんさんの家」と定食の写真が貼られている建物があり、食堂あるやん!と思って近づいていくと、その横にでかでかと貼られた「一時休業中」の文字が見えてきて、がっくり。もともと土日祝のみの営業ではあるようだが、なんと「この4月の一ヶ月間だけ」、諸事情により全面休業となっているようなのだった。うう、もう本当にお昼ごはんにありつけない気がしてきたぞ。ほぼ無人地帯だった昨日おとといより、ずっとお店の選択肢があるはずなのに…。

まちなみ館
まちなみ館
御田八幡宮の参道
御田八幡宮の参道

「まちなみ館」の奥の通りなど(「いしぐろ」がたくさんあった)気の向くままに町を散策して、もとの遍路道に戻ってきた。「旧吉良川郵便局」のレトロな建物が出てきたら、重伝建エリアももうすぐ終わりだ。大正15年に建てられたという郵便局の写真を撮っていると、隣の商店からおじいちゃんが出てきて、瓦が郵便マークになっていると教えてくれた。後ろの突き出ているところがチョンマゲみたいでかわいい。わざわざ〒印の瓦を作って焼くなんて、大変な拘りようだ。職人の腕の見せ所だったのかな。

郵便局跡から5分ほど歩くと「第2まちなみ駐車場」というのが現れて、ここで指定地区は終了のようだった。いや〜見応えあったわ、と時計を見てびっくり、15:15。いかん、フィーバーしすぎて町歩きだけで1時間以上が経過している。お宿まではまだ5km以上、ゆっくり歩いても16時には着くだろうと思っていたのに、このままでは17時近くになってしまうではないか。ここからはマジメに歩こう。いつもなら「せっかくだから」と寄ってしまいそうな不動岩を回避したのは、ある意味己をよく分かっていたのかもしれない。

郵便局跡
郵便局跡。ポストはオブジェのため使用はできない
郵便マークの瓦
郵便マークの瓦

重伝建地区を出てからは住宅がまばらになり、漆喰に水切り瓦の家もぽつぽつとはあるものの、空き家っぽい雰囲気のものが多くて少しうら寂しい。1kmほど歩いて国道と合流するところに公衆トイレ兼休憩所を発見。先を急ぎたい気持ちはあったが、キラメッセ室戸を出てから2時間半ほど経ち、腰にだるさを感じ始めていたので、いったん荷物を下ろして休憩をとることにした。ついでに水分も補給。

国道沿いに出てからの4kmと少しは特に眺望もないので、お宿を目指してひたすら歩く。ひとつだけめっちゃ面白い看板があった。「男一代、瓦道/あゝ吉良川の町、キラメッセ室戸でCD販売中!」瓦屋の大将が町おこしにと熱意を込めた歌だそうだが、巨大看板を使った広告が本気すぎる。後ろのプロ?の看板も霞む勢いだ。思わず笑ってしまったが、その裏には「むろと廃校水族館18km、室戸ジオパークセンター15km」と車向けの観光案内が書かれていて、もうそんなに遠くに来てしまったのか、と一転してしんみりした気持ちになる。いろいろ感情が忙しい。

その少し先に「ドライブインオハラ」というお店があった。やっと出会えた営業中の食堂で、「ぐれたたき丼」と書かれた旗が舞っていてとても気になったが、もう食事をとる時間でもなかったのでパス。結局今日はおやつだけで歩き通すことになった。

トイレつき休憩所
トイレつき休憩所。近くに自販機もあり便利
CDの宣伝看板
男一代、瓦道!

 

本日のお宿に到着!

16:25、「羽根川橋」を渡って羽根の集落に入った。河口ぎりぎりに架かっている橋で、川が海に流れ出ていく様子が間近に見える。橋を渡ったところにローソンの看板があり、おっ、コンビニあるのか!明日の携帯食を調達していこうかな、と思って近づいていくと、「この先9kmと10km」と書いてあってずっこけた。いや変わらんて。こう、もうちょっと手前に1軒、ぜひ!(実はこの看板のある民家の向こうに「花まるひろば」というスーパーがあったらしいのだが、つっこんでいるうちに見逃した…)

川が海に流れ込む様子(羽根川橋より)
川と海の境目(羽根川橋より)
ローソンの案内看板
コンビニ、遠かった

16:45、「おうち宿しだお」さんに到着。こちらは焼山寺の前日にお世話になった「イレブン」さんお勧めのお宿だ。隣の空き地に面した方に受付があったのだが、その反対側から回りこんできたので、入口が分からなくてしばしウロウロしてしまった。気さくな女将さんは受付簿に書いた住所を見て「あら!」と声をあげる。女将さんの出身地は関西で、生まれ育ちは同じ鉄道沿線、結婚して四国に来られるまではなんと隣の駅が最寄りだったという。まさかのご近所さん。これまでに3回くらいはすれ違っているかもしれない。

お風呂と洗濯を終えて、19:00、待ちに待った夕ごはん。カツオのたたき、黒まぐろの子供(このあたりでは’ヨコ’と呼ぶらしい)、鯨のくろかわなど、今日も海の幸満載で嬉しい。昼間ことごとく食事のタイミングを逃してきたのでお腹が空きすぎていて、ご飯を3杯も食べてしまった。宿泊客はマツさん、50代くらいの歩きお遍路さん、自転車の逆打ちさん、自分の4人。自分以外はいずれも男性だ。ふと、そういえば歩き遍路の日本人女性ってまだ出会ったことないな、と思い当たる。スペインの北の道(850kmの道中で一度も日本人に会わなかった)といい、なにかと世間と逸脱した動きをしている私、何者なんだ。

本日のお宿「おうち宿しだお」
本日のお宿、「おうち宿しだお」さん
夕ごはん
鰹のたたき!これぞ高知!

マツさんの行程は今日も激しかった。金剛頂寺を下りた時に15時を回っており、Google先生に聞いたらお宿まであと2時間半と出たので、17時には着きたい!とそこから走ってきたとのことだ。ザック背負って走ったんか…膝大丈夫かいな、と半分感心、半分呆れていたら、計画が無謀すぎる!と女将さんをはじめ他のお遍路さんにも盛大につっこまれていた。久しぶりに4人も集まったので話題は尽きず、連休中の宿が取りにくい!という話で盛り上がっていると、女将さんが「萩森リスト」というお宿情報サイトを教えてくれた。部屋に戻ったらチェックしてみよう。

20時過ぎ、それぞれの部屋に戻る。明日のために荷物をあらかた整え、1時間ほど仮眠して頭をスッキリさせてから、お宿対策の開始だ。「萩森リスト」も気になるが、まずは四万十のお宿を決めることにする。四万十川を渡るには、大きくふたつのルートがある。北上して市街地のほうまで上がるか、なるべく河口付近を通るかだ。自分は河口寄りを考えていたのだが、「ペンションひらの」さんに教えてもらった「民宿月白」さんは少し北寄りで、距離が出てしまうのがネックだった。そこで、かねてから目をつけていた第二候補、奥の手のカード(というほどでもないが…)を切ることにした。「オートキャンプ場とまろっと」、キャビン(宿泊棟)のあるキャンプ場である。

HPで枠の埋まり具合を見ることができたのだが、空き状況は以下の通り。
ーーーーーーー
5/1(木)  ◯
5/2(金)  △
5/3(土)  X
5/4(日)  X
5/5(月祝) X
5/6(火祝) ◯ ← 泊まりたい日
5/7(水)  ◯
ーーーーーーー

ですよね!!

次の日平日だから、家族連れはみんな帰っちゃうよね!!

… というわけで、予約フォームから無事に申し込みを完了。4名まで1律12,000円なので素泊まりにしては割高になってしまうが、宿なしよりは断然マシだ。これで連休の宿泊は全て片がついた。ついでにその先も考えてみるか、と「萩森リスト」の方にも目を通しかけたが、ほっとしたせいか恐ろしい眠気が襲ってきたので、もう明日に回そう。23:00就寝。

 

 

 

 

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